三国志演義には何人かの仙人が出てきますが、そのどれもが創作の人物である訳ではありません。曹操をからかう謎の仙人、左慈などはかなりトンデモ逸話をお持ちですが、実際の人物とされています。
今回は正史に名前が出てくるものの本当にいたのか……と思ってしまう人物トップランク(筆者の中で)左慈のお話をしていきましょう。
この記事の目次
左慈は正史に記載がある
後漢書は中国二十四史のひとつであり、正史です。そして前述したように、三国志演義では抜群のインパクトを残す仙人、左慈はここにある方術列伝の下巻に、左慈伝として記載されているのです。
また曹丕や曹植の文献にも記されているので、少なくとも左慈という人物がいたということは確かであり、貂蝉のように創作の人物ではないことが分かります。
ファンタジー・・・・方士はいっぱいいたのか?
ここで曹丕や曹植の文献を見てみると、曹操が呼び寄せた人物として「廬江の左慈」という人物として紹介されています。とは言え曹操は方士たちを呼び集めたようなので、もしかしたらこういう仙人や道術士を名乗る、もしくは周囲からそう言われているような人々は多くいたのかもしれませんね。因みに左慈は300歳を自称していて、片目が潰れ、語足が不自由、青い衣を身にまとっていたが見栄えはしない老人であったとされます。
曹家の皆さんから見た左慈
曹植によると左慈は房中術に通じていた人物で、曹丕の典論から左慈たちは曹操に仕える軍吏になったようです。
左慈の評判は高く、教えを乞うものが幾人も訪れ、その中には宦官たちもいたとか……房中術とは性行為による健康法ですが、去勢されている宦官たちはどうやって教えを乞うたのか……いや、細かいことは横に置いておきましょう。
ともかくこの左慈、曹植によれば天寿を全うしたようです。つまり于吉が孫策に殺されたように曹操に殺されたりするようなことはなく。しかも曹植がその最期を知っているようなら曹操に最期まで従っていた可能性もある訳ですね。
後漢書による左慈は
さて左慈の逸話を後漢書から見ていきましょう。ここでは曹操が宴の席で水をはったお盆から魚を釣ったり、蜀の生姜を食べたいと言えばすぐ取ってきたりと曹操を驚かせ楽しませたとあります。
しかし後に左慈が酒と干し肉を曹操の部下に配っていたので調べさせると、町中の酒と干し肉が消えていたために怒った曹操は左慈を捕らえさせようとしました。
しかし左慈は姿を消し、町中に左慈の姿が溢れ、最後には曹操は「殺すつもりなんかなかった、術が見たかったの!」と悔しまぎれのようなことを言って終わります。まあトンデモ話ではありますが、後漢書にこれが記されているのが面白いところですね。
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