織田信長と浅井長政、戦国一の美女と言われたお市の方の輿入れにより一度は義理の兄弟として深い絆で結ばれたかに見えました。しかし後には長政による裏切り、そして最期は義理の兄信長が弟長政を攻め滅ぼしてしまいます。
身内であっても裏切りや暗殺、反逆が多かった戦国時代においても印象深い二人の関係。信長と長政の関係を軸に、桶狭間の戦い以降、信長が戦国の雄に駆け上がるダイナミックな時代を追ってみましょう。まずはその前半、信長と長政の同盟締結から裏切りまでを振り返ってみます。
この記事の目次
- 二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
- お市の方の輿入れ~同盟締結
- 1.美濃攻略のための同盟:
- 2.勢力安定と拡大への準備同盟:
- 3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
- 信長、長政にとっての同盟のメリットは?
- 蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
- 朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
- なぜ、信長は出陣要請しなかった
- 長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
- 虚構だった金ヶ崎の退き口
- 長政裏切りの真意とは?
- 悟空さんの中間まとめ
- 姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
- 信長出陣、姉川の戦いへ
- 志賀の陣:第一次信長包囲網の形成
- 長政、琵琶湖西岸から攻め上る
- 一時休戦、長政最大のチャンスを逃す
- 小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成
- 信長、再び小谷城へ出陣
- 小谷城陥落~長政の死
- 浅井氏滅亡その後
- 戦国ライター悟空さんの独り言
二人の同盟:桶狭間後の信長と長政
永禄3年(1560年)、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った信長は、今川家の弱体化、三河岡崎城主に地盤を確保した松平元康(のちの徳川家康)との清州同盟(永禄4年=1561年)と東に憂いを無くすことに成功しました。これを背景に尾張北部、犬山周辺に残る反対勢力排除による尾張統一と美濃攻略に着手することになります。
一方、桶狭間の戦いから三か月後、元服直後、15歳の長政(当時は賢政と名乗っていました)は南近江の強豪六角氏との野良田の戦いに勝利。北近江での浅井家を六角氏の従属から解き放ち戦国大名としての地位を固めることに成功しました。長政の祖父亮政が獲得した北近江もその後父久政の代には六角氏に臣従することで辛うじてその立場を保っていましたが、長政がそれを取り戻すこととなりました。
お市の方の輿入れ~同盟締結
その後信長は永禄10年(1567年)に稲葉山城を攻略し、念願の美濃を手に入れることになります。これに前後して、長政との同盟を妹お市の方を輿入れすることで締結することになります。このお市の方輿入れ時期には諸説あり、その時期によって信長にとっての同盟の目的が変わってしまいます。
1.美濃攻略のための同盟:
一番早い時期としては永禄2年(1559年)から永禄6年(1563年)という説です。この場合、信長にとっては美濃攻略を首尾よく進めるために北近江浅井家との同盟によって背後から牽制してもらうのが目的と考えられます。
2.勢力安定と拡大への準備同盟:
続いて永禄7,8年(1564,65年)説です。この時点でも信長は美濃を手中に収めておらず、一見すると先の説と変わらないように見えます。しかしこの頃には、尾張統一を果たし(永禄8年=1565年)、武田信玄との同盟のため養女を信玄の四男勝頼に娶らせています。すなわち美濃攻略は目の前の課題ではありますが、もう少し広い視野での領国安定化を見据えだした時点にあたります。
3.足利義昭を奉じての上洛の安全確保のための同盟:
そして最後は永禄10年(1567年)、しかも美濃攻略がなった翌月というものです。この場合、美濃攻略のためという名分は存在せず、次の戦略への一歩ということになります。この時期、信長には越前の朝倉家に身を寄せていた足利義昭を奉じて上洛するという意図が明らかに存在しており、長政との同盟は近江の国を安全に通過し京へ上る道筋を確保するためのものと考えられます。
筆者は三番目の説に与したいと考えます。
その根拠としては
1.この同盟の使者として西美濃に地盤を持つ不破光治が派遣されたと「浅井三代記」に記述があります。彼が斎藤家を離れ信長傘下に降ったのは他の西美濃の有力者の動向から稲葉山城陥落に近い時期であったと思われるからです。
*「浅井三代記」は江戸時代に書かれたもので信憑性が乏しいのが欠点です
2.足利義昭の幕臣和田惟政が命を受けてお市の方と長政の婚姻を働きかけたという記録があり、それが永禄9年(1566年)頃でないかと思われること。
*義昭が同盟に関係しているということは、上洛に絡んでの同盟と見てよいのでは。
この2点を挙げておきたいと思います。
実際に少し早い時期(永禄8年=1565年)に信長は幕臣の細川藤孝あてに義昭を奉じての上洛の意志を表明しています。義昭は永禄8年から9年にかけて六角氏、斎藤氏も含めて近江から尾張にかけての四氏を和解させ、自らの上洛を果たそうとする動きを見せています。しかしながら京を支配する三好三人衆による工作があったのか、この中から六角氏と斎藤氏は離脱することになりました。義昭にとっては意志表明をしてくれている信長が頼りで離脱した二氏への対抗上、長政との同盟を成立させたかったのではないでしょうか?
信長、長政にとっての同盟のメリットは?
両家にとって義昭の斡旋は大きなメリットになったのではないでしょうか?
まず、信長にとっては義昭を奉じて上洛し将軍の座につけることは、自らの地位を室町幕府内で確固たるものにする意味がありました。信長は美濃攻略直後から「天下布武」の印章を使い始めていますが、これは五畿内(山城、大和、河内、和泉、摂津)に幕府の統治を確立させるという意味との説が現在では有力とされています。従来言われていた信長自身が武力で天下統一を果たそうと決意したという意味ではないのです。
この時期の信長はあくまでも室町幕府の正常化を成し遂げ、その組織内部での自らの地位より高いものにすると考えていたと思われます。この同盟は近江の国を安全に通過するため、すなわち六角氏との対抗上充分に効力を発揮するものでした。
長政にとっても室町幕府に対する奉公を果たすことができることは、北近江での地位を安定させることができることに繋がります。祖父亮政時代に大きな世話になった朝倉氏(信長との関係は悪かったと言われています)に義理立てしてこの同盟に反対を唱える家臣もいたと言われていますが、幕府のために同盟するという大義名分には抗うことはできなかったのではないでしょうか。
そして父の代から頭を悩ませていた斎藤氏、六角氏による圧迫から解き放たれ、宿敵六角氏を完全に抑え込めるこの同盟の意義は長政にとってとても大きなものがありました。この時期に長政は元々の六角義賢の一字をとった賢政という名を信長から一字をとった長政に改名しています。
蜜月から一転裏切りへ 佐和山での会見~観音寺城攻め~上洛
永禄11年(1568年)越前から義昭を迎え入れた信長はいよいよ上洛することになります。この年9月8日、近江高宮城(今の滋賀県彦根市)で信長と長政は初めて対面しました。信長はこの時34歳、長政は23歳。働き盛りで大大名に出世しつつある信長と若武者長政の対面は共に前途に明るい未来を感じるものであったことでしょう。
両者の対面から4日後、信長からの上洛の助力を拒否した六角氏を攻撃することになります。観音寺城の戦いです。信長1万5千人の兵に長政は3千人の兵をもって六角氏を攻撃します。この戦いはあっけなく六角氏の敗北でけりがつき、当主の六角義治はさらに南にある甲賀に敗走しました。これにより信長は易々と義昭を奉じての上洛を達成、長政は父の代から苦汁を飲まされ続けてきた宿敵六角氏を駆逐することで北近江を盤石のものにすることに成功します。
朝倉攻めの決断~そして裏切りに繋がる疑問
首尾よく上洛を果たし、京周辺の反義昭勢力の排除に成功し、義昭を第15代将軍に擁立した信長は、各地の大名に上洛して将軍義昭に挨拶するよう要求します。越前の朝倉氏はそれを無視します。これに対し、信長は元亀元年(1570年)4月、朝倉攻めを決断し織田・徳川連合軍約3万人の軍勢で越前・敦賀に攻め込みます。この出陣は当然、幕府・朝廷の命を受けた形を取っており、当初の出陣理由は若狭の武藤氏を攻めることにありました。信長は途中で矛先を朝倉氏に変更し、敦賀に兵を進めたのです。この出陣先で、長政の裏切りにあうのですが・・・。
なぜ、信長は出陣要請しなかった
まずそもそも、信長はなぜ同盟国であり、越前に隣接する北近江にいた長政に出陣要請をしなかったのでしょうか?あるいは要請はしたが、長政が出陣を断ったのでしょうか?
遥か三河の国から徳川家康は出陣しています。家康と長政、いずれも信長の同盟相手のはずです。伝えられている説としては、長政との同盟締結の際、長政側からは世話になった朝倉氏を攻撃しないとの条件で同盟に同意したというのがあります。現在ではこれはあまり信憑性のない話とされています。仮にそうだとしても今回の出陣は若狭の国を攻めるのが大義名分、これならこの条件には当てはまりません。
信長としては、若狭の国攻略が口実でありはなから朝倉氏攻めを企図していたのかもしれません。それで長政に声を掛けなかったのでしょうか?
この戦いに長政が当初から出陣していないのは、すでにこの同盟には綻びが生じていた可能性があるのかもしれません。
同盟の大義名分は義昭を奉じて上洛、そして室町幕府再構築にありました。それを達成して僅か二年足らずの間に、長政から見た信長に大きな変化を感じ取ったのかもしれません。信長は表面上は義昭を立ててはいますが、自らの自由に振る舞い義昭を利用する行為が明らかになりつつあります。前年とこの年には義昭に対して殿中御掟というのを制定し承認させています。義昭の行動には信長の許可を必要とし、一方信長は義昭の許可を必要とせず自由に振舞えるという内容を含んだものでした。それでも両者は決定的には対立しておらず、お互い助け合う姿勢はしばらく保たれますが、決裂の芽はすでに生まれていたと見てよいでしょう。長政からするとこの信長の専横ぶりに何らかの感情を抱いても不思議ではありません。長政にしてみれば、北近江に安定を築けたのは信長との同盟のおかげではありますが、この同盟は義昭の斡旋(和田惟政が義昭の命を受けてお市の結婚を斡旋した)によるもので室町幕府あっての同盟という意識が強かったのではないでしょうか。
長政の裏切り:金ヶ崎の退き口
越前の国敦賀に攻め込んだ信長軍は朝倉軍を圧倒します。朝倉軍は敦賀から撤退し、後方の木の芽峠を防衛線に守りを固めようとしました。まさにこの時、信長に長政の裏切りが伝えられたと言われています。
敦賀は北に日本海、三方は険しい山に囲まれている土地です。ここで南の北近江から長政軍が出てくると、東の朝倉勢と挟み撃ちに合う形になります。撤退する方向は南西方向に山道を抜けて行くしかなく、大軍を率いて短時間では抜け切れません。信長は僅か10人程度の馬廻衆とともに慌てて逃げ出し山道を駆け続け、京への脱出に成功します。殿軍は池田勝正を大将に羽柴秀吉、明智光秀らが務め、朝倉・浅井勢の攻撃を巧みにかわしながら逃げ切りを果たしたと伝えられています。これが有名な「金ヶ崎の退き口」と呼ばれている撤退戦です。
虚構だった金ヶ崎の退き口
ただ果たして、実際はこのように信長軍が命からがら京に戻らなければならない危険な局面になったのでしょうか?
先に述べたように、同盟を結んでいるにもかかわらず出陣しない長政を信長は警戒しないでしょうか?
長政の元には妹お市の方おり、戦国の世では輿入れして後もある意味スパイとして実家にその動向を常に伝えている役目を帯びていたはずです。このような局面(背後から襲われる危険性)では、当然情報伝達が行われていたと考える方が自然です。この裏切りが長政主導ではなく父久政と反信長親朝倉派の家臣の共同謀議であったとする話が伝えられていますが、そういった家中のムードも事前に伝えられていた可能性もあります。
信長はそういった浅井家内部の不統一、あるいは長政の信長に対する専横ぶりに対する不満など同盟を脅かす状況をすでに察知していたはずです。
この僅か2か月後に姉川の合戦に至っていることから、この時期に長政が同盟を破棄、裏切りに出たことは確かでしょう。しかし、信長はその裏切りをある程度あるいは確実に察知しており、実際には金ヶ崎の退き口のような命からがら京へ逃げたなどという醜態はさらしていないと思います。
また考察に加えなければならないのは長政の動員能力です。当時の北近江は石高にして25万石程度でしょうか、多く見積もっても40万石でしょう。1万石で250人の動員が当時の平均と言われていますので、長政は6千人から最大1万人動員できたと思われます。
この裏切りは家中がその方向でまとまったものではないようですから、急襲に参加したのは半分の3千人が精一杯ではないでしょうか。一方、敦賀に陣を引く信長勢は3万人、朝倉勢がある程度反撃に出てきたとしても、数千人を殿軍とすれば充分撤退しながらの戦いに余裕があったという見方もできます。
長政裏切りの真意とは?
このように、金ヶ崎の戦いにおいて、長政は朝倉氏に与することで信長との同盟を破棄してしまいます。長政はなぜ義理の兄である信長を裏切ったのでしょうか?
これまでに述べてきたことを整理すると、以下のような理由が考えられます。
1.祖父亮政の頃より恩義のある朝倉氏へ弓を引くことはできない、という考えから信長との縁切りを選んだ。
2.室町幕府への忠誠心から、義昭をないがしろにしつつあった信長を討ち果たそうと考えた。
筆者は2の立場を取りますが、1の説もある程度の説得性があると言えます。
長政の北近江統治は信長がすでに尾張・美濃で達成していたような独裁政権ではなく、国人領主の集合体による連立政権のリーダーという形だったのでしょう。父久政の隠居に際しても、家臣である国人領主たちが計らって隠居に追い込んだと伝えられています。また信長との同盟でも家臣から反対意見が出たとか、同盟破棄も久政と家臣が強く訴えた、など多くの物事が長政の一存では決められなかったと思われる節があります。祖父亮政時代からの古参家臣などは特に朝倉氏に恩義を感じていたものも多かったのかもしれません。
ただ久政が朝倉氏に恩義を感じる筋合いは全くないのではと思います。久政の時代は六角氏に押され、それに従属することでようやく浅井家の命脈が保たれていました。そのような状態で朝倉氏が背後から攻めこそはしませんでしたが、共同して六角氏に当たろうとの動きは示していません。いわば久政の窮地に手助けすらしなかったと言えるでしょう。また久政のその統治初期には亮政の娘を養女にして斎藤義龍に輿入れさせています。これが近江の方と言って義龍の正室にあたります。しかし斎藤氏は六角氏と手を結び、たびたび小規模ながら戦闘を起こしたり、六角氏と呼応して浅井氏を苦しめたりします。斎藤氏も浅井氏にとっては敵でありそれを倒した信長に感謝こそすれ、弓を引く理由は見当たりません。
このようなことから家臣がかなり強硬に意見ができ、それを長政が取り入れなければ領国経営が成り立たない、という条件がなければ1の理由による同盟破棄は考えにくいのではないでしょうか。
2の説の問題は、元亀元年(1570年)の時点ではまだ信長と義昭の関係が完全に崩壊してないということです。信長からは殿中御掟が突きつけられ、その内容は将軍としての義昭にとっては屈辱的なものです。
例えば「諸国へ御内書を以て仰せ出さる子細あらば、信長に仰せ聞せられ、書状を添え申すべき事」=諸国の大名に書状を出すときは信長に報告の上、信長の書状を添えて出すこと
あるいは「天下の儀、何様にも信長に任置かるるの上は、誰々によらず、上意を得るに及ばず、分別次第に成敗をなすべきの事」=天下のことは信長に任せられたのだから、誰に従うことなく、将軍の命も必要なしに信長の独断で成敗してもよい
などがあり、完全に主客が逆転しています。それでも両者は表面上協力しつつ事にあたっていた時期でもあり、長政が信長の専横ぶりを咎めるにはまだ早いとは感じます。
しかしながら同盟締結の永禄10年(1567年)以来2年数か月、信長と義昭を近くで見ていた長政にとっては、信長の態度の変化を感じうる立場にいたのではないでしょうか。徐々に義昭をないがしろにしつつ、上手く利用すべく立ち回る信長に不信感が芽生えていても不思議ではないように思えます。義昭を奉じての上洛の一翼を担った自負と若武者の正義感・幕府への忠誠心が同盟破棄への動機づけとなったと考えられないだろうか。
そしてこの後は、信長と長政は激しい戦闘を幾度となく繰り返すことになり悲運の最期を迎えることとなります。
悟空さんの中間まとめ
信長と長政の同盟締結そしてその裏切りの周辺にはまだまだ多くの謎が残されています。時代は激動しながら目まぐるしい展開を見せており、特に信長に関しては桶狭間の戦いから上洛、そして朝倉攻めの10年間にとてつもない大きな渦の中で大出世を遂げています。信長の心境も日々刻々と変わっていき、己のとてつもない能力に気づきそれが行動に反映されていったのでしょう。一方の長政はその変化についていけず、旧来の価値観から脱却できなかったのかもしれません。同じ古い価値観の朝倉氏とはそれが共有できたのでしょう。
姉川の合戦:信長、京から岐阜へ
元亀元年(1570年)4月金ヶ崎での朝倉攻めの際に、長政の手痛い裏切りにあった信長は急ぎ京に戻った後、即座に自らの本拠地である美濃の岐阜へ向かったようです。
一方の朝倉勢と長政は、琵琶湖の東岸を南下し京から岐阜へのルートを抑えにかかりました。さらに南近江では一度は観音寺城の戦いに敗れ甲賀に落ち延びた六角勢が息を吹き返しはじめ、朝倉・浅井連合軍に呼応する動きを見せます。六角氏と言えば長政と度々争い敵同士であったはずですが、まさに「昨日の敵は今日の友」、戦国の世らしい変わり身ですね。このあたりからすでに第一次信長包囲網の萌芽が見てとれます。
このため信長は本来美濃への帰路で取るべき彦根から米原、関が原を抜ける最短ルートを通ることができず、南へ迂回し永源寺あたりから桑名へ抜けるルートで5月下旬、ようやく岐阜へ帰り着きました。すでに南近江に配備されていた柴田勝家や佐久間信盛らが六角氏を蹴散らした後、琵琶湖東岸あたりまで南下していた朝倉・浅井連合軍を避け南へのルートを取ったと言われています。
信長にとって近江を安全に通行して岐阜と京都を行き来できないことは、非常に困ることでした。京には自らが担いだ将軍義昭がおり、摂津や河内といった畿内を完全に掌握しきれていない状況下であり、岐阜と京都を頻繁に往来する必要があったためです。信長は急ぎ軍勢を立て直し、徳川家康とともに近江に出陣しました。
信長出陣、姉川の戦いへ
まずは西美濃と北近江の境界にある長比城を守る長政の部下、堀秀村を調略します。この時活躍したのが木下秀吉の軍師として名をはせた竹中半兵衛のようです。西美濃出身の半兵衛は秀村の家老であった樋口直房と親しかったため、直房を通じて秀村の調略に成功します。この後の長政との戦いでは、しばしば調略によって長政の家臣を寝返らせており、秀吉と半兵衛が果たした役割は大きいものと言えます。
この長比城を我が物としたことで一気に北近江への道が開けます。元亀元年(1570年)6月21日、信長は北近江になだれ込みました。信長は長政の本城である小谷城から目と鼻の先にある虎御前山に布陣し、部下に命じて小谷城下を焼き払った後、いったん退却し、約7km離れた姉川の南に陣を構えました。この時点では朝倉氏の軍勢、徳川家康の援軍いずれもまだ到着していません。信長は姉川の南岸近くにある横山城を包囲し、攻め落とそうとします。このあたりで朝倉・家康共にそれぞれの陣営に参陣したようです。
長政にしてみれば横山城を取られるとそれより南へ進出することもできず、小谷城に押し込まれてしまいます。さらには横山城より南に配置されている家臣達との連絡・連携も不自由になることもあり、すぐに援軍に向かうこととしました。
6月28日、朝倉・浅井勢は姉川の北側に布陣します。朝倉勢は8000人、浅井勢は5000人であったと言われています。一方の信長勢は10000人、家康勢は3000人であったと言われています。(合戦における出陣人数は資料によってバラつきが大きく確実な数字ではありません)
一番合戦を希望した家康がまず西側にいた主に朝倉勢で構成された一軍に襲い掛かります。次いで信長は東側の主に浅井勢へ。当初は一進一退の激しい戦闘が行われたようです。江戸時代に書かれた「浅井三代記」には長政の重臣磯野員昌が信長本陣に迫る勢いで突撃したが、後巻きしていた信長の西美濃三人衆が駆けつけ何とか本陣を守ったとあります。後世の脚色が色濃い記述ですが、それほどに厳しい戦いだったのでしょう。その後は家康麾下の榊原康政が朝倉勢の側面に隙を見つけ襲い掛かると朝倉・浅井勢は総崩れとなりました。まずは朝倉勢が敗走、次いで長政も小谷城へと逃げ戻ることとなり、この戦いは信長・家康連合軍の大勝利となりました。信長は小谷城下までなだれ込み、一気に勝負をつける勢いを示しましたが、籠城に移った長政を討ち果たすことは難しいと見たのか陣を戻し、横山城を攻め落とします。
信長にしてみればこの横山城を手中に収めることができれば朝倉・浅井勢は南へ下ることができず、近江の通行の安全がある程度確保できることから、この出陣の最低限の目標であったのでしょう。もちろんここで一気に朝倉・浅井勢を駆逐できればベストであったでしょうが、すでに畿内では荒木村重と三好三人衆が不穏な動きを見せていたこともあったのか、横山城に秀吉を城番として留め置き、岐阜へと引き上げました。(実際に6月19日に摂津で信長に与していた池田勝正が家臣の荒木村重により追放されており、これは村重と三好三人衆が結びついての行動でした)
志賀の陣:第一次信長包囲網の形成
姉川の戦いの勝利も束の間、畿内では荒木村重の蜂起に合わせて元亀元年(1570年)7月、四国へ退避していた三好三人衆が摂津に上陸し、野田城・福島城(現在の大阪市福島区あたり)に立て籠もり反信長ののろしをあげます。8月に入って信長は岐阜を出立、26日に天王寺に着陣しました。ここで動き出したのが石山本願寺(現在の大坂城と同じ場所にあった)に本拠を置いていた本願寺顕如です。各地の一向宗(浄土真宗)門徒に檄文を発して蜂起を促すなど、反信長の旗幟を鮮明にしました。9月10日には顕如は長政に対しても書状を送っています。ここに第一次信長包囲網が形成されます。
この第一次信長包囲網は主に下記の勢力で形成されていました。
1.摂津石山本願寺の本願寺顕如
2.摂津野田城の三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)
3.摂津池田城の荒木村重
4.越前の朝倉義景
5.北近江の浅井長政
6.南近江の六角義賢
7.比叡山延暦寺の僧兵
8.紀州の雑賀衆
9.伊勢長島の一向一揆衆
長政、琵琶湖西岸から攻め上る
摂津での顕如らの蜂起に呼応して、9月16日朝倉・浅井の連合軍は琵琶湖西岸を南下し京へ攻め上るため宇佐山城(現在の滋賀県大津市)に迫ります。この時信長は、摂津の三好勢、本願寺勢の対処に追われており、そちらに在陣しています。信長の判断としては、朝倉・浅井連合軍より摂津の敵対勢力の方が厄介だったのでしょう。宇佐山城の森可成はわずか1000人の軍勢で30000人の朝倉・浅井軍に対することになります。ほどなく南近江から味方2000人が着陣し、可成勢は宇佐山城から北の坂本あたりに陣を敷きますが、19日には延暦寺の僧兵が朝倉・浅井軍に加わり、一気に可成勢に襲い掛かりました。この戦闘で森可成は討ち死にしますが、宇佐山城に残った兵は朝倉・浅井軍の猛攻に持ちこたえます。なお、森可成は古くからの信長の家臣で尾張統一以前から各地の戦で数々の武功を挙げています。信長は彼の死を悲しみ、これが翌年の比叡山焼き討ちの一因とも伝えられています。
朝倉・浅井軍は宇佐山城は落とせなかったがさらに兵を進め、21日には京から東山連山を隔てた山科・醍醐あたりまで到達します。この報を受けた信長は京の危機を重く見て摂津から急ぎ退陣し、京まであわてて戻ります。朝倉・浅井軍はこれを聞き、兵を比叡山まで退却させます。信長と朝倉・浅井軍、まともに戦えば、信長の方にかなり分があったのでしょう。京を目の前に腰砕けになり、朝倉義景にとっては信長にとってかわる最大のチャンスを逃すことになりました。
一時休戦、長政最大のチャンスを逃す
信長にしてみれば比叡山が朝倉・浅井軍に与したことが厄介で、一気にこれら勢力を排除することができなくなりました。この状況の中、各地で反信長勢力が続々と立ち上がります。先に挙げた第一次信長包囲網が機能し始めたのです。この時点での各方面での情勢は次の通りでした。
1.摂津方面:三好勢などが京に上ろうとするのを和田惟政が防いでいる
2.南近江方面:六角勢と一向一揆衆を木下秀吉と丹羽長秀そして家康が撃破
3.伊勢方面:長島の一向一揆が勃発、信長の弟信興が討ち死に
4.比叡山周辺:朝倉・浅井軍とのにらみ合い状態
11月25日には坂本のすぐ北にある堅田で戦闘があり、信長側はこれまた重要な家臣である坂井政尚を失っています。
信長は戦況を打開するため、義昭を頼んで朝倉・浅井軍と講和に動きます。一方の朝倉義景も豪雪の時期を目前に越前への撤退を考えていたようで、12月13日義昭からの講和を受け入れて兵を引き上げました。ここに志賀の陣が終結するとともに第一次信長包囲網の一角が崩れることになります。
信長はこの志賀の陣で、当時、近江から畿内にかけての統治で重要な役割を果たしていた森可成と坂井政尚を失う痛手をうけた一方、朝倉・浅井軍は京に旗を立てる千載一遇の機会を逃すことになりました。
小谷城陥落へ:第二次信長包囲網の形成
年が明けて元亀2年(1571年)2月、信長は佐和山城の磯野員昌を攻めます。員昌は長政の家臣として浅井四翼と呼ばれ、合戦では度々武功を立てていました。姉川の戦いにより横山城を奪われたことにより小谷城と佐和山城は分断されており、員昌は苦しい立場に置かれていました。結果、員昌は信長に降り、長政は南近江と北近江の境の足場を完全に失うことになります。
そして9月にはあの有名な比叡山焼き討ちで信長包囲網の一翼であった延暦寺の僧兵が根絶やしにされてしまいます。
この時期には信長と義昭の関係はすでに修復不可能な状況になりつつあったようで、義昭は各地の大名などに御内書を送り反信長勢力を結集させようとの動きを示しています。第二次信長包囲網が生まれつつあったのです。この包囲網はこの年から武田信玄が没する天正元年(1573年)まで続きますが、義昭を中心としてまとまった勢力であったとは言えず、むしろ本願寺顕如による画策であったと指摘する説もあり、背景は複雑であったと言えます。
第二次信長包囲網の主な勢力は以下の通りです。
1.摂津の石山本願寺を本拠とする一向宗門徒、伊勢長島、朝倉氏滅亡後の越前
2.摂津の荒木村重、池田知正
3.近江、越前の浅井長政、朝倉義景
4.摂津の三好三人衆
5.甲斐の武田信玄
6.将軍足利義昭
7.河内、大和の松永久秀、筒井順慶ら
8.南近江の六角義賢、甲賀衆、伊賀衆
いずれにせよ長政はこの包囲網の一角で信長に対抗し続けます。しかしながら、朝倉氏に果断に事は運ぶ力強さがなかったことが致命的でした。長政は義理の兄信長を裏切ってまで朝倉氏と運命を共にしようとしたものの、選ぶ相手を間違ったとしか言えないような苦しみを味わいます。
一方信長は包囲網の各勢力と絶え間なく戦闘を繰り返しながら各個撃破していきます。この間の機敏な各地への転戦は佐和山城を手中に収めたことで岐阜と京の交通路の安全が確保できたことが大きいと思われます。
信長、再び小谷城へ出陣
元亀3年(1572年)7月、信長は大軍をもって北近江に侵攻し、小谷城の目と鼻の先にある虎御前山に布陣、そこから南東方向の横山城まで数キロ(5~6キロ)に渡る要害を作ります。長政はこの危機に朝倉義景に援軍を頼み、朝倉勢は約20000人の兵力で援軍に来ました。しかしこの援軍ほとんど役に立たなかったようで、逆に有力家臣が次々と信長に寝返る始末でありました。長政の家臣でも小谷城と横山城の中間にあった宮部城の宮部継潤が木下秀吉により調略されています。信長は巨大な戦力を誇示することで、朝倉、浅井勢に恐怖させ、次々と調略を仕掛けて弱体化させていきました。四方を敵に囲まれた包囲網の内にあって兵力を温存しつつ、寝返りによる家臣の増強も計るという一石二鳥の戦略を採っていたのです。
11月にはそのころ虎御前山を守備していた秀吉に対し、朝倉、浅井勢は戦闘を仕掛けますがあっさり撃退され、朝倉勢は12月には越前に引き上げてしまいます。
しかしこの頃には信長包囲網最大の勢力、武田信玄が甲斐から出陣し、12月には遠江の三方ヶ原で家康を完膚なきまでに叩きのめし、三河へ軍を進めようとしていました。
歴史にifがあるとすれば、信玄がこの後病に倒れることなく尾張、美濃に侵攻し、朝倉・浅井勢がひと踏ん張りできていれば、長島の一向一揆、京で蜂起する義昭、畿内の各反信長勢力との協力の元、信長はにっちもさっちも行かなくなっていたことでしょう。もちろん歴史は信長に味方しました。
小谷城陥落~長政の死
翌元亀4年(1573年)8月、小谷城の西方にある山本山城を守備していた阿閉貞征が秀吉の調略で寝返ったのを機に、信長は再び北近江に30000人の大軍を差し向けます。長政は5000人の兵で小谷城に籠城するしか道は残されていませんでした。朝倉の援軍は20000人で小谷城北方に陣取りましたが、信長の攻撃にあえなく敗退し、越前へ逃亡します。信長は小谷城を囲んだまま残りの兵力で朝倉勢を追撃、18日には義景の居城一乗谷城を焼き払い、20日ついに朝倉氏を滅亡させます。金ヶ崎の戦いから幾度も戦火を交えた信長と朝倉勢ですが、朝倉勢は一度も信長に勝利することなくあっけない最期となりました。越前での栄華に酔いしれていた朝倉勢と尾張、美濃、近江、畿内で常に激しい戦闘を続けていた信長とでは戦闘能力にかくも開きがあったと言わざるを得ません。
朝倉氏を滅亡させて信長は即座に小谷城攻城戦に挑みます。27日夜、木下秀吉が3000人の兵で長政の本丸と久政の小丸を分断すべく間にある京極丸を占領。さらに小丸を集中攻撃し久政を自刃に追い込みます。長政以下500人の兵力に減少した本丸はすでに丸裸状態でした。長政は嫡男の万福丸(永禄7年=1564年生まれ)を逃がした後、お市の方と娘三人を織田方に渡します。万福丸はその生年からお市の方の子ではなく、六角氏由来の先妻か側室の子と思われ、後に秀吉の捜索により発見され、関が原で串刺しの刑に処せられます。そして9月1日、長政は重臣赤尾清綱の曲輪で自害し、29歳の生涯に終わりを告げます。
浅井氏滅亡その後
長政の自害により浅井氏の栄華は三代で終止符が打たれます。しかしながらお市の方との間にもうけた三人の娘はそれぞれが歴史に名を残す女性として長政の血を後世に伝えています。
長女の茶々は言わずと知れた秀吉の側室淀君として、豊臣秀頼を生みます。次女の初は京極高次の正室に。京極高次はその名の通り北近江の名門で初とはいとこ同士でもありました。高次は関ヶ原の戦いの時、近江大津城に居城しており西軍の毛利勢や立花宗茂からの攻撃に耐え、15000人と言われる大軍を釘付けにし主戦場である関が原に赴くことを阻止しました。この勢力が関が原に参陣していれば家康も危うかったと思われ、この功績を評価されて若狭の国を与えられています。
三女の江は豊臣秀勝に嫁いだのち、家康の嫡男二代将軍秀忠に嫁ぎます。秀忠と間に生まれた長男が三代将軍家光、娘の和子は後水尾天皇に嫁ぎました。秀勝との間に授かった娘は貴族の九条家に嫁ぎ、その子孫は大正天皇の皇后節子となりました。江の子孫は男系女系共に今上天皇に繋がっているのです。すなわち長政の血は徳川将軍家と天皇家に脈々と受け継がれているということになります。
長政とお市の方は義理の兄との戦いの間においても仲睦まじかったようで、三女の江がまさに小谷城が落城した元亀4年(あるいは天正元年=1573年)に生まれています。一説にはお市の方は身重の体で小谷城において織田方に引き渡されたとも言われています。
戦国ライター悟空さんの独り言
信長は残虐で、エキセントリックな性格の持ち主であったと描かれていることが多いのですが、決してそうではなかったと思います。長政との戦いの後、長政と義景の頭蓋骨を盃にして酒を嗜んだという逸話が残っていますが、これもその残虐性を表すものとされてきました。しかしこれも新しい説ではそのような儀式を通じて死者に対する敬意を表すものというのが有力なようです。合理主義者である信長は寝返ったり、引き抜いた敵将でも適材適所に用いており、一方根絶やしにすべき敵には容赦しないこともその合理性を示すものだったのでしょう。
また、長政には大局観がなく、信長の本質を見抜くことができなかったのではないでしょうか?意外に最後まで付き従った家臣たちが、長政を滅亡の道へと導いてしまったのかもしれません。荒木村重や松永久秀のように信長に牙を向いた後に軍門に降り重用された大名もいたように長政にも再度信長に降って生き延びる方法もあったかも、と思います。
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