最初に、こう申し上げたい。
「織田信長の覇業の前半戦は、実は『マムシ』こと斎藤道三の、遺産相続争いだった!」と。
これは私の思いつきではなく、司馬遼太郎の歴史小説、『国盗り物語』がとっているスタンスです。この小説では、斎藤道三が下克上で美濃国の領主になったのは、美濃一国で満足するつもりではなく、そこを拠点に京都を伺い、いずれは天下を狙う野心があったから、とされています。
稲葉山城のような勇壮な城を築いたのも、美濃国を天下取りにふさわしい軍事拠点にする為だった、と解釈されています。
「美濃国を拠点に京都の政界に割り込み、そのまま一気に天下を狙う」というプラン。これは後に織田信長が遂行した戦略そのままです!
それほどまで道三が「天下取りの地ならし」として栄えさせていた「美濃国」という土壌、天下取りの野心を持つ者たちにはたまらない価値のある遺産であった、と言えないでしょうか?
道三自身にとっても、老齢になって自分が天下取りに手が届かないと悟った時、誰が自分の後継者にふさわしいかは大きな関心事だったはずです。実はこの「誰が道三の後継者にふさわしいか」レースの中で、「織田信長こそが、斎藤道三の後継者として美濃に入るにふさわしい」という論調づくりに、巨大な役目を担った人物がいます。それが、斎藤利治です。
この記事の目次
そもそも斎藤利治って誰?いったい何をした人なの?
この斎藤利治という人物は、いったい何者か。ひとことで言えば、斎藤道三の実の息子(末っ子)です。
齊藤道三の息子というと、信長の前半生のライバルとして立ちはだかる斎藤義龍のほうが有名ですが、他にも道三には男子がいたのですね。
ということは、この斎藤利治もまた、道三の後を継いで美濃の主となり、そこから天下を狙う野心を見せてもよかったはずです。ですが斎藤利治は、そうはしませんでした。自らが美濃国の後継者レースに絡むことはせず、そのかわりに、日本史上に残るきわめて重要な行動をとったのです。
斎藤道三がそもそも信長を「後継者」と認めていた!その手紙を送り届けた斎藤利治!
問題となるのが、「美濃一国譲り状」という手紙。息子の義龍に攻められ、絶体絶命の窮地に陥っていた斎藤道三の、最後の書状とされています。いわば斎藤道三の遺言状に相当するもの。
その中身は、「美濃国は(息子の義龍ではなく)、娘婿の織田信長が統治するのがふさわしい」という文章でした。直接に血がつながった息子たちの中からではなく、隣国の君主であり、娘婿の関係にあたる織田信長にこそ、美濃国の後継者になってほしい!
道三自身がこれを明言したとなれば、信長に美濃国を力攻めで奪う大義名分を与えるのみならず、
「自分が果たせなかった京都入りと、天下取りを目指せ!」という想いが込められていたという解釈さえ可能です。
織田勢にとってはおおいに奮い立つ手紙!ですが率直なところ、なんとも織田側に都合がよい書状にも見えます。
誰でも、「さすがに偽書なのではないか?」と、一度は疑うでしょう。
この「美濃一国譲り状」を信長に渡したとされている人物が、まさに道三の息子である斎藤利治なのです!
「道三の実の息子がわざわざ戦場を脱出して持ってきた!」という事実が信長に大義を与えた!
考えてみれば斎藤利治にもし野心があれば、そのような斎藤家本家に都合が悪く、義理の兄弟の信長に都合がよすぎる遺言状は、握りつぶしてしまってもおかしくなかったところでした。ところが利治は、律儀にこれを信長に届けました。
これはもう、
「斎藤家の息子ですら、斎藤義龍のことは見限り、信長こそが美濃の跡取りにふさわしいと認めている!」
という論調を作る上で決定的なニュースだったことでしょう。
もうひとつ重要なことは、この斎藤利治、その後は織田信長軍の重要な武将となり、各地を転戦して大活躍をする、というところです。
もし「美濃一国譲り状」が信長の自作自演だったとしたら、そのような偽りを平気で行う義理の兄に、本家の義弟がそこまで忠誠心深く、ついていくでしょうか?
もちろん、それでも「美濃一国譲り状は道三の直筆かそれとも偽書か?」の論争は、現代でもなお、収まることはありませんが、斎藤利治がとくに文句も不満もなく織田家に忠誠を誓って生きていたという事実が、「ホンモノ派」の強力な後押しとなっていることは確かです。
まとめ:本能寺の変でもし斎藤利治が死んでいなければ?
この斎藤利治のことを信長もかわいがり、嫡男である織田信忠の部下につけていたとされています。このように順風満帆に見えた斎藤利治の生涯に、突然、終わりがやってきます。
それが、本能寺の変でした。本能寺で信長が討たれた後、長男の織田信忠も明智軍に攻められて戦死してしまいますが、その織田信忠に最後まで付き従い、ともに明智軍の中に切り込んで奮戦し、華々しい死を遂げたのが、斎藤利治です。そのまま進んで行けば織田信長の後継者となっていたはずの織田信忠と、並んで戦死するくらいに絆が深かった、斎藤利治。しかもかの斎藤道三の息子ということで、血筋のインパクトも強烈です。
戦国時代ライターYASHIROの独り言
もし本能寺の変で亡くなっていなければ、織田信忠の腹心として、「天下人の二世に付き従う宰相」のようなポジションにまで出世する可能性もあったのではないでしょうか。そのように考えると、この人物、なんとも惜しいタイミングで亡くなったものであり、是非、もっと活躍をしてほしかったと思ってしまいます。
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