蜀(221年~263年)の章武3年(223年)に劉備はこの世を去りました。前年に呉(222年~280年)の陸遜と夷陵で戦って敗北。
多くの部下を失って撤退しました。劉備は成都の地を踏むことなく、諸葛亮に後事を託してこの世を去ります。さて劉備はどこで、また何の病気が原因で亡くなったのでしょうか?早速、解説していこうと思います。
この記事の目次
劉備は白帝城で死亡説
劉備は白帝城(現在の重慶市にある城)の永安宮で死んだと言われています。これは『三国志演義』の作者の羅貫中も採用しており、後世のマンガ・ゲーム・ドラマも使っています。
正史『三国志』でも夷陵の戦いの後に、白帝城に劉備がいると知った孫権は、和睦の使者を送るという話があるので劉備が白帝城で亡くなったと信じる研究者も少なくありません。
白帝城に対しての異論
だが、中には劉備は白帝城で死んだのではないという人もいます。例えば孫権は「劉備が白帝城にいる」と聞いたが、遠方からの情報なので信ぴょう性に欠けていると唱える論者もいます。しかし、そんなことを言ったら全部の情報を疑わないといけないですけど・・・・・・
永安県城内説
正史『三国志』によると夷陵の戦いに敗走して撤退した劉備は駐屯した「魚腹県」(現在の四川省奉節県)という土地を「永安県」と改称しています。劉備が亡くなったのは永安宮。つまり、劉備は白帝城で死んだのではなく永安県城内で亡くなったと唱える人もいるのです。
永安県城内死亡説の証拠は?
劉備が白帝城ではなく永安県城内で亡くなったと唱える以上、証拠がなくては話になりません。果たして具体的な証拠はあるのでしょうか?
永安県・・・・・・現在の四川省奉節県の師範学校には城に関しての石碑がありました。
石碑は明(1368年~1644年)の時期に作られたものであり、史料価値は断言できません。また、惜しい事に文化大革命の時に破壊されてしまったのです・・・・・・そのため現在は調べることが出来ません。
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