孫皓と言えば呉の皇帝、そして三国時代きっての暴君として有名でもあります。彼は皇帝となったからかその暴君と言われても仕方がないような数々の行動を記録されてしまっているのですが、その中で正に犬公方の先駆けのような行動をしているのが興味深いところ。
しかし孫晧はどうしてそんな行動を取ってしまったのか?今回はそこを考察してみようと思います。
孫皓の生まれと成長
孫皓は孫権の孫に当たり、父は孫和という人物です。しかしこの孫和、孫権の後継者として皇太子となるも、二宮の変の争いで皇太子から廃されることになります。
その後、孫晧の父である孫和は諸葛瑾の息子、諸葛恪の失脚に巻き込まれ自殺に追い込まれました。この際に正室であった張氏も共に自害、孫和の子供たちは孫晧の母である何姫の元で育てられることになるのです。
皇太子となり、いずれ皇帝となるはずだった父親は祖の地位だけでなく命すら奪われ、孫家は肉親でさえ争い合う場となり、そして孫晧はそんな場所で成長していったのでした。
復権、後
孫和が廃嫡されたのが250年、そして時が流れ258年のこと、孫和を追い込んだ孫魯班が失脚。これにより孫和の子供たち、孫晧たちの復権がなされ、新しく皇帝となった孫休によって孫晧たちは侯に封じられることになりました。
この時に孫晧は烏程侯になり、烏程県令であった万彧と親しい交わりを結びます。孫休は二十代前半、まだまだ若く、子供は男子が四人おり、おそらく孫晧に皇帝の鉢が回ってくるなど誰も考えはしなかったでしょう。
皇帝の急死……
264年、孫休は急死しました。この時、孫休の子供はまだ幼く、昨年蜀が滅亡したばかりの混乱極まりかねない時代。孫休の重臣である濮陽興と張布、皇后朱夫人に「烏程侯には長沙桓王の才知あり」と説得したのが、左典軍となっていた万彧だったのは何かの運命でしょうか。
そして23歳にして、孫晧は皇帝となったのでした。因みに長沙桓王とは孫策のこと。如何に孫晧に期待が寄せられていたか分かりますね。
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