鍋島直茂と彦鶴姫バツイチ同士の馴れ初めはなんとイワシだった?

2020年10月31日

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kawauso編集長(石原 昌光)

編集責任者

kawauso編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務めるほか、紙媒体やWebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者・おとぼけ(田畑 雄貴)

コンテンツ制作責任者

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月に「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感していただけることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。

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西郷隆盛と伊集院須賀

 

どんな英雄豪傑も好きな女性の前では平凡な1人の男です。ましてや、一方的に相手に惚れてしまえば、どんな小細工も計略も役に立ちません。そこにあるのは、好きか嫌いか、何とも思わないかの三択、惚れた弱みのある男は、相手に振り向いて欲しい一心で頭と心が一杯になり、無力な存在になり果てるのです。

 

鍋島直茂

 

肥前の戦国大名、鍋島直茂(なべしまなおしげ)にも家人(かじん)に泥棒と間違えられ斬りつけられてまでゲットした恋女房がいました。初代鍋島藩主、鍋島勝茂(なべしまかつしげ)の母でもある彦鶴姫(ひこつるひめ)です。

 

天文10年(1541年)石井常延の次女として誕生

戦国時代の武家屋敷b

 

彦鶴姫は、天文10年(1541年)肥前国佐嘉郡飯盛城主(ひぜんのくに・さかぐん・いいもりじょうしゅ)石井兵部少輔常延(いしい・ひょうぶのしょう・つねのぶ)の次女として誕生しました。成長した彦鶴姫は、龍蔵寺家の家老、納富信澄(のうとみのぶずみ)に嫁ぎますが、永禄9年(1556年)夫の信澄は戦死、彦鶴姫は一人娘を連れて石井家に戻ります。永禄12年(1569年)北九州の覇者、大友宗麟(おおともそうりん)は大友氏の支配下から逃れて独立しようとする龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)に対し、討伐命令を出します。

 

何本も翻る軍旗と兵士(モブ)

 

これにより、数万の大軍が肥前国に侵攻し、大友軍は佐賀城を取り巻いて持久戦を展開しました。一方、龍造寺軍は、時々城から出てゲリラ戦を展開、その兵士の中に親の再婚で龍造寺隆信の義理の弟になった鍋島信昌(なべしまのぶまさ)(直茂(なおしげ))もいたのです。

 

イワシを焼く彦鶴姫に直茂は一目ぼれ

幕末 魏呉蜀 書物

 

肥前佐賀藩士、山本常朝(やまもとじょうちょう)が書き記した「葉隠(はがくれ)」によると、その日、肥前日之江城主(ひのえじょうしゅ)有馬晴純(ありまはるずみ)との合戦に勝利した龍造寺隆信は、鍋島直茂らと軍勢を従え龍造寺城に凱旋の途中石井家の居城、飯盛城に立ち寄り昼食を頼みます。

 

城主の石井常延は、侍女たちに命じて兵士たちにイワシを振る舞うように言いますが、その日の供の数は非常に多く、人数分のイワシがなかなか焼けません。

 

いつまで経ってもやってこない昼飯に腹を空かした兵士はイライラ「おい!いつまで待たせるんだ!」と怒鳴り声を上げる者も出る始末で、そうなると侍女達はますます焦り、狭い厨房で無理に大量のイワシを焼こうとして、増々イワシが焼けなくなりました。

 

 

それを見ていた彦鶴姫は「なんと手際の悪い事、どいていなさい」と侍女達を叱りつけると、みずから竈の火をかき出して庭先に広げ、炭火の上に直接イワシを並べ、大きなうちわで煽って火力を送り込んで大量のイワシを一気に焼き上げ、灰を落として皿に並べて出しました。

 

鍋島直茂は、この大量のイワシを一気に焼き上げる機転が利く彦鶴姫に一目ぼれしてしまいます。

(なんと賢く機転の利く女性であろうか、わしはあの方を妻にしたい)

 

当時の鍋島直茂は32歳、彦鶴姫は29歳、共にバツイチ子持ち同士でした。

 

はじめての戦国時代

 

足の裏を斬られても彦鶴姫に猛アタック

戦国時代の武家屋敷a

 

鍋島直茂は恋慕の炎断ちがたく、まるで青年ロミオのように、毎日、毎日、石井氏の屋敷に忍んで彦鶴姫に猛アタックを開始します。しかし、直茂は一目ぼれでも彦鶴姫はそうでもなかったのか、或る時、直茂は石井家の屋敷の者に盗人と間違われて足の裏を刀で斬られたそうです。足の裏を斬られるという事は、突然声を掛けられ、驚いてひっくり返りその時に足裏を斬られたのでしょう。

 

豊臣秀吉の熱いオファーによって肥前の大名を断るも渋々受けてしまった鍋島直茂

 

豊臣秀吉に天下を狙える逸材と評された直茂にしては、何とも情けないですが、好きな女の前では肥前の名将も平凡な1人の男だったのです。しかし、足の裏を斬られても熱心に通い続けた直茂の熱意に彦鶴姫も次第にほだされ、その年の内にゴールイン。龍造寺氏の譜代の重臣、石井家と鍋島家の縁組に主君の龍造寺隆信も上機嫌であったそうで、二人は当時の武家では珍しい恋愛結婚でした。

 

2人の結婚生活は49年にも及び、老年になっても直茂は彦鶴姫を「かか、かかぁ」と呼び、全ての事を夫婦で相談し、とても仲睦(むつ)まじかったそうです。

前妻の復讐をかわした彦鶴姫

 

円満な結婚生活を送っていた彦鶴姫ですが、1つのトラブルに悩まされていました。それは、直茂が離婚した前妻、慶円尼(けいえいんに)が何度も、うわなり打にやってくるという事でした。

 

うわなり打ちとは、一定のルールの下で社会的に認められた前妻による後妻への報復行為の事です。一定のルールとは、不意打ちをしないで、正々堂々、日時を決めて後妻を襲撃する事、さらに、刃物のような致命傷を与える武器は持たず、箒(ほうき)やしゃもじ、すりこぎや重箱など日用品だけを武器と防具にする事でした。

 

実は、慶円尼、岳父の高木胤秀(たかぎたねひで)が龍造寺氏の敵方に寝返り、その為、直茂に一方的に離婚されていました。慶円尼は、その事に恨みを持ち再婚した彦鶴姫の元に何度も出向き、うわなり打ちをしたそうなのです。

 

ところが彦鶴姫は、慶円尼がやってきてもうわなり打ちに応じず、静かにお茶を出して持て成しました。慶円尼も根っから意地の悪い人でもないようで、武装していない彦鶴姫には何も出来ず毎回すごすごと帰って行ったそうです。幸い、慶円尼は鐘ヶ江盛清(かねがえもりきよ)という再婚相手を見つけ、以後はうわなり打ちに来なくなりました。

 

太閤秀吉に言い寄られる彦鶴姫

名古屋城

 

彦鶴姫の危機はもう1つありました。豊臣秀吉の文禄出兵の時です。豊臣秀吉は、文禄の役の前線基地として、名護屋城(佐賀県唐津市)に滞在していた事がありましたが、この時、彦鶴姫を呼び出し、夫の留守を守っている事を讃え慰労(いろう)したいと申し出てきたのです。

 

もちろん慰労は口実で、美人が多い諸大名の奥方を呼び寄せ、夫がいない隙にあわよくば手を出そうというスケベジジイの魂胆があっての事でした。一度は、やんわりと断った彦鶴姫ですが、秀吉は諦めず、再度、彦鶴姫を呼び出しました。彦鶴姫は、貞操を守る為に秀吉の誘いは拒否したい。でも、断り方が悪ければ、夫の方に腹いせが行くかもしれないという難しい選択を迫られます。

 

考えた彦鶴姫は、外見を醜くすれば秀吉も手を出すまいと考え「葉隠」によれば、なんと、額の両端をつっぱりのように剃り上げバリバリ4649の姿で秀吉と対面したのです。

 

今で言う「鬼剃り」をキメタ彦鶴姫の異様な迫力を見た秀吉は、さすがに萎(な)えたのか手を出さず、以後、二度と彦鶴姫を呼び出す事はありませんでした。

内容に納得がいかないkawauso様

 

しかし、当時の彦鶴姫は、50歳を過ぎており、秀吉の正室の高台院(こうだいいん)とほぼ同年代、あるいは年上です。年下、姫様好きの秀吉には、ストライクゾーンから外れている気がするのですが、彦鶴姫は今で言う美魔女だったのでしょうか?いずれにせよ、機転の利く彦鶴姫は見事に秀吉の魔手から自分を守ったのでした。

 

戦国時代ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

彦鶴姫は、天正12年(1584年)龍造寺隆信が沖田畷(おきたなわて)の戦いで有馬と島津の軍勢に大敗し、鍋島家や、実家の石井家からも多数を戦死者を出した時でも、留守居の家臣たちが動揺する中で落ち着き払い、実家の石井家や家臣の面々に「鍋島直茂の妻」としてお悔やみの書状を書き送り、龍造寺氏の結束が緩まないようにしています。

 

夫が動けない時に、必要な措置をしっかりと済ませる彦鶴姫の気丈さが窺えます。また、彦鶴姫は、ただ気丈なだけではなく慈悲深い人でもあり、常に領民の生活を気に掛けたので家臣や領民から、とても慕われていたそうです。

 

夫、鍋島直茂の死後、彦鶴姫は、落飾し陽泰院(ようたいいん)と名乗り、さらに10年を生きて、息子勝茂による鍋島藩の成立を見届け、寛永6年(1629年)89歳で大往生を遂げました。

 

参考:Wikipedia

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。「はじめての三国志」編集長。三国志・中国史を中心に、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を執筆・編集し、当サイトでは4,000本以上の記事を担当。三国志は正史から入ったため、演義を書くときのほうが神経を使うという天邪鬼。故郷・沖縄の歴史に関する勉強会の開催や、ラジオパーソナリティとしての活動も行う。

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