

羽柴秀吉を天下人の地位に押し上げた最大の要因は、主君織田信長を討った謀反人明智光秀を山崎の合戦で打ち破った事です。
そして、それは中国大返しと呼ばれる備中高松城から京都山崎までの電撃退却、いわゆる「中国大返し」にある事は争う余地がない事実だと考えられています。
しかし、秀吉1人ならまだしも、2万人というフル装備の大軍に220キロを8日間で走破させた手法については、今でも議論が絶えず結論が出ていません。そこで、今回は中国大返しの高速移動は船だったという説について紹介します。
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単純に距離だけの問題ではない大返し
毛利攻めの途中だった羽柴秀吉が織田信長横死の事実を知ってから、毛利側と和睦し、高松城の城主清水宗治を切腹させ、退却を開始するのには、どんなに遅くても6月5日夕方がタイムリミットと考えられています。
そこから京都の山崎までの距離が220キロ。8日で分割すると、毎日22.5キロメートルを歩き続ける事になります。これだけなら、毎日マラソンをしているような人は、そんなに大変な距離とは思わないかも知れません。
しかし、問題は距離だけではなく、引き連れている2万人という膨大な兵力でした。例えば、単純に2万人の兵力が排泄する大小便の量は1日に34トンにもなります。
その2万人が消費する食糧は1日でおにぎり40万個分に相当しました。もちろん、おにぎりばかりではなく、梅干しや味噌のような調味料や副菜や水も必要です。これらは、もちろん天から降って来るわけではなく馬で運びますが、馬にも水と飼葉が必要なので、2万人の軍勢になると7000頭の馬が必要。
この馬の排泄物が1日120トンも出るので、兵士と合計すると、154トンの排泄物が毎日出る計算でありこの処理が滞ると、たちまち疫病の蔓延が発生します。そればかりでなく、2万人が眠る場所の確保も必要です。中国大返しの困難さとは、距離だけでなく2万人の軍勢と、それをやり遂げるという物量の問題が最初にあるわけです。
山陽道最大の難所船坂峠
地図だけを見ていると分らない事としては、難所の存在があります。例えば、備前と播磨の国境には、山陽道最大の難所と呼ばれた船坂峠がありました。
戦国時代当時、山陽道の海岸線の陸地は狭く、大軍が通れないので迂回して船坂峠を通りましたが、この船坂峠、標高こそ180メートルですが、標高差が激しく蛇行し畝のように上下する道が続きます。
おまけに、船底峠は道も狭く、滑りやすいので難所とされ、2万の軍勢がフル装備で通過するには、かなり厳しい場所でした。
武功夜話という史料によると、ある部隊が大返しで船坂峠を越える時、1150名の兵士がいたのが、坂を越えるまでに300名が脱落し、850人まで減っていたそうです。
1150人から300人が脱落というのは、26%の喪失で2万人の羽柴軍で考えれば単純計算で、5200名が脱落してしまう計算になります。しかも、狭い坂道では隊列も細く長くなり、途中に伏兵でもあれば大混乱になってしまいます。
この難所をフル装備の兵士が踏破するのはリスクが大きすぎる、秀吉はそのように判断し奇想天外な策を思いつきました。
片上湾から海路で武器防具だけを姫路城に運ぶ
講談社ブルーバックスで、日本史サイエンスという新書を出した播田安弘氏は、この時、羽柴秀吉は備前の片上湾から船を出し、自身と旗本と2万人の兵士の武器と甲冑、弾薬などを満載して、海路で赤穂に向かったのではないかと推測しています。
こうすれば、2万人の兵士は20キロにも及ぶ装備の重量から解放され、かなり楽に船坂峠を越えられるのではないかと言うわけです。
当時の日本の船は関船と呼ばれる中型船でしたが、一隻の積載量は75トン程あります。それに対し、2万人の兵士の装備の重量は食糧を除くとして1人20キロ×の2万で400トン、つまり、関船が6~8隻あれば積める計算になります。
それに、地図の通り戦国時代の瀬戸内海は、今よりも海外線が内側にあり、船の航行がスムーズに行える地形のメリットがありました。また、この周囲は、秀吉の傘下にあった宇喜多秀家の領地で、その支配下にある前田水軍が存在していました。秀吉は瀬戸内海を熟知した前田水軍の手引きで、兵士の装備や弾薬と一部の旗本を連れて海路を姫路城に向かったとも考えられるのです。
岡山地名辞典に残る海路
片上湾から船を使い赤穂に向かうというアイデアは、播田安弘氏の思い付きだけではなく、岡山県の郷土史家、巖津政右衛門氏が監修した岡山地名辞典の西片上という項目にも出てくるそうです。
天正10年(1582年)3月備中高松へ出陣する羽柴秀吉は、浦伊部の豪族法悦の屋敷に宿泊し、帰路は片上から夜半に船に乗って赤穂に急ぎ、そこから陸路姫路城に帰っている。
ここに出てくる浦伊部とは片上にあった港町で法悦とは海運で財を為した来往法悦を意味し、この記述は来往家に伝わる文書を元に書かれたと考えられるそうです。
もっとも史料によっては、秀吉は帰路、急遽京都に寄る事情が出来たので、法悦には会わなかったという記録もあるそうで、必ずしもこの記録通りでは無いかも知れませんが、少なくとも、方上湾から赤穂まで船が出ていた、その発想を秀吉が持っていたと考えてもいいのではないかと思います。
秀吉が逸早く戻る事が重要だった
そして、ここが重要ですが秀吉にとっては、2万人の全軍が全て引き返す以上に、まずは自身が姫路城に到達する事が重要でした。羽柴秀吉が姫路に到着したのは高松城から撤退を開始してより36時間から48時間後で、6月7日頃、秀吉は姫路城に6月9日まで留まり、怒涛の勢いで周辺の大名に手紙をだし、自分の神速アピールと信長の仇討ちを呼びかける事になります。
この頃に姫路には、さほど多くの秀吉軍将兵は到着していなかったでしょうが、そんな事は遠く離れた畿内の大名達には分かりません。
「備中高松にいた筈の秀吉が、こんな短期間で戻って来るとは神業だ…ヤツには、大きな武運がついているのではないか?」
畿内の大名は、秀吉の神速に度肝を抜かれ、光秀を見限り秀吉側に雪崩を打って参加します。
秀吉は、そこからは悠々と行軍し、山崎の合戦では疲労の色が濃い自軍を後方に下げ、池田恒興、中川清秀、高山右近、加藤光泰、木村重茲を前面に出しています。秀吉は最初から自軍が使い物になるとは考えてなく、神速アピールで味方につけた畿内の大名に頑張ってもらおうと高を括っていたのです。
戦国時代ライターkawausoの独り言
羽柴秀吉は、中国大返し最大の難所を船坂峠と定め、ここを回避する事に知恵を絞ったのでしょう。その結果が、片上湾から船を使い、自分と旗本が一刻も早く赤穂に到着する事。
同時に兵士の装備も船に乗せ、出来るだけ軽装で2万人の軍勢に船坂峠を越えさせ脱落者を減らす事だったのです。実際、姫路城より先は、ゆっくりとした行軍なので、船が赤穂についた時点で、秀吉は勝利を確信していたかも知れませんね。
参考文献:日本史サイエンス 蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎に迫る
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