今回は馬謖と一緒に山に「登らなかった」人物として有名な王平についてお話しましょう。この王平という人物、晩年の蜀を支えたと言って良い人物であり、中々に面白い逸話を持つ人物でもあります。
そんな王平について、そしてその王平に対する陳寿の評価に付いて、お話したいと思います。
この記事の目次
魏から降ってきた武将・王平
王平が出てくるのは漢中攻略戦。劉備と曹操のある意味初めての全面対決が彼の初登場です。ですが王平は元から蜀の兵ではなく、魏の校尉でした。蜀との戦いで降伏し、蜀の武将の一人として重用されていくことになるのです。
街亭(山登りではない)
さてそんな彼が一躍有名になった戦いが街亭の戦い。ここで王平は馬謖の副将として付けられます。しかし突如として馬謖が山に登ろうとしたことで対立。
馬謖と王平は別々に陣を張ることにし、結果、馬謖は大敗。王平は殿となって張コウの追撃を阻止、敗残兵をまとめて引き上げたことで諸葛亮に高く評価されることとなりました。
忠義の士・王平
諸葛亮が亡くなった後は呉懿の後任となって前監軍・鎮北大将軍に昇進。
元々は魏の人とは言え軍を任されるだけの人物となり、244年には曹爽らの10万の大軍相手に地理を活かした方法で戦うことで兵力差を覆し、撃退。
その後、248年に病死しました。彼は蜀の人々からも忠義の人であると高く評価されていたと言います。
王平の弱点?
降伏将でありながら重用され、その期待に応え、多くの人々に信頼された人物。さてそんな王平ですが、実は「性格が悪い」と書かれています。それも「偏狭」「疑り深い」「軽はずみにものを言う」と結構な評価!今回はこの欠点とも言われる性格についてちょっと考えてみました。
王平の「欠点:性格」
因みに「欠点:性格」と書かれる人は、多くの場合そこで失敗をしています。
「優柔不断で後継者を決められなかった」……というのも、そうですね。ただし王平伝などを見る限り、王平はその性格でどんな失敗をしたとは書かれてはおらず、どちらかというと功績の方が多く書かれています。
むしろ王平伝を読んでいくと人格者にも感じてしまう王平、どうして陳寿はこのようなまとめ方をしたのでしょうか?
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