織田信長亡き後、明智光秀、柴田勝家を倒して一気に存在感を現し、天下取りに名乗り出たのが羽柴秀吉(はしばひでよし)です。
ところがそれに立ちはだかったのが、後に天下を取って江戸幕府を開く徳川家康。この両雄が激突した小牧・長久手の戦いについて、わかりやすく解説します。
この記事の目次
どうして家康と秀吉は対立した?
信長の家臣として名もなき小物から司令官の立場になった秀吉、そして三河の大名家として信長と早い段階で同盟を結んだ家康。両者は本能寺の変までは敵対することなく、信長のもとでそれぞれが戦っていました。
本能寺の変が起きたとき、堺にいた家康は、伊賀越えを敢行。三河に戻って打倒明智の軍を動かそうとしましたが、すでに秀吉が中国からの大返しで、明智軍と激突しこれを滅ぼしました。家康は信長からみて格下の立場みたいになっていたとはいえ、独立した大名。一旦は身を引きます。
対して信長の家臣だった秀吉は明智を倒した後、信長の有力家臣たちが清州に集まり信長の後継者争いに顔を出します。このときに柴田勝家と対立した秀吉は、勝家や信長・三男信孝らを武力で滅ぼしました。そして事実上の信長の後継者としてその地位を確実なものにしていきます。
その動きを警戒していた家康ですが、彼も当時は5か国を所有していた大大名です。そんな矢先に信長の次男・信雄は、秀吉の圧力に耐えきれず、どんどん関係が悪化していきます。このとき信雄は家康と同盟を結びます。
さらに秀吉は信雄の家老たちを自分の家臣にしようと画策します。それを知った信雄は家老たちを処刑。それに憤った秀吉が信雄を攻撃するために兵を出しました。そして信雄の要請で家康も兵を出したのがこの戦いの始まりとなります。
戦いの原因、織田信雄はどんな人?
小牧・長久手の戦いのきっかけを作った織田信雄(おだのぶかつ)について紹介します。彼は織田信長の次男として、1558(永禄元)年に生まれました。幼名は「茶筅丸(ちゃせんまる)」といい、理由は、髪を結ったら茶筅という茶道で抹茶を点てるときにつかう道具みたいになったからです。
信雄が歴史上に登場するのは、1569(永禄12)年のことです。前年に足利義昭とともに上洛した信長は、その一方で伊勢の北畠具教(とものり)を攻めていました。すでに北伊勢は支配下におさめていましたが、この年に南伊勢にも侵攻し、長期戦の末に和睦します。
その条件として信雄を養子に送り込むことを同意させます。信雄は北畠具意(のぶおき)と改名し、織田家が北畠家を実効支配する体制を築きました。ところが1579年(天正7)年に信長に無断で伊賀を攻めたために、伊賀との激闘となり大敗してしまいます。
その結果「そのほうのせいで大切な兵を多数失った。許さん!かくなる上は親子の縁を切る」と父・信長に言われてしまいました。それでも2年後には、5万の大軍を率いて伊賀は制圧。しかし翌年に本能寺の変が起こります。
父と兄・信忠が明智光秀に討たれて死亡。光秀との戦いも考えた信雄ですが、制圧したばかりの伊賀の国人たちの反乱を恐れて、戦えません。結局光秀は秀吉に滅ぼされます。
その後の清須会議で、信忠の子である三法師と弟・信孝で争われるのですが、信雄は候補にも挙がりませんでした。
秀吉により、勝家・信孝が滅ぼされると、織田家は事実上秀吉に乗っ取られた形になってしまいました。信雄は自分ひとりではどうすることもできません。そこで家康を頼り、小牧・長久手の戦いにつながるのです。
小牧の戦いとは?
小牧・長久手の戦いでは、手始めに家康が尾張清洲城に進軍させます。当時大垣城には池田恒興が入っていました。彼は途中まで態度が曖昧でしたが、この戦いに勝利すれば秀吉から尾張一国が約束されておりました。そこで秀吉側として家康と戦うことになります。恒興は犬山城を占拠。
それを知った家康は小牧山城に入ります。恒興とともに戦う森長可は、岐阜・可児にあった兼山城から出陣。それをキャッチした徳川軍がすぐに動き出しました。「殿、森軍が犬山で突出したように陣を張っておる模様」「よし、では羽黒に兵を向けよ。奇襲で相手を蹴散らせ」といった具合。
その日の夜に松平家忠・酒井忠次らの軍勢が5000で犬山の羽黒に向けて進軍。森側の反撃があるものの、家忠の鉄砲隊の活躍で、ついに敗走に成功させます。そして邪魔者がいなくなった家康は小牧山城の警備を強化。秀吉が来るのを待ち構えました。
秀吉は3万の軍勢で大坂から岐阜に進軍。犬山城に入りました。この間に砦や土塁を双方の軍勢が競うように構築したため、大規模な戦いができません。両軍にらみ合いのまま、膠着状態が続くことになります。そしてこの状況を打開しようと策を練ったのが、三河攻めでした。
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