三国志は、西暦263年に蜀が滅亡し、280年に呉が滅ぼされる事で晋により統一されます。滅亡を企業に例えれば倒産という事になりますが、蜀と呉は滅亡した時に、どの程度の財産を保有していたのでしょうか?
今回は、滅亡した時の蜀と呉の会計帳簿から色々と推測してみたいと思います。
この記事の目次
蜀の会計帳簿
王隠蜀記によると、西暦263年、劉禅が鄧艾に降伏した時、劉禅は尚書郎李虎という人物を派遣して蜀の人民の簿籍を送らせています。
それによると、蜀の戸数は28万戸、男女の人口は94万人、フル装備した兵士は10万2千、官吏は4万人、兵糧は40万斛、金銀2千斤、絹や錦のような布帛が20万匹であり、それ以外も大体、この程度だったと記録されていました。
一番の特徴は特産品である蜀錦など、各種の織物が20万匹積まれていたという事でしょう。金銀はかなり少ないですが、蜀錦を売りさばく事で経済を回していたという印象です。
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呉の会計帳簿
西暦280年、晋の王濬が呉に攻め込み、諸将では一番早く呉の都に到着します。
孫晧は自らを縛って出頭してきましたが、王濬は孫晧の縛を解き、棺を焼いて孫晧を自陣に招き入れ会見。孫晧は正式に降伏し呉は滅亡しました。
晋陽秋によれば、晋の王濬は呉の図籍を収め、そこには領州4、郡43、県313、戸数52万3千、官吏が3万2千人、兵力は23万人、人口は男女で230万人。米穀280万斛、船は5千艘、後宮には5千人の美女がいたそうです。
こちらは広い領土の割に、特産品についての記述がないのが気になりますね。しかし、逆に米穀についてはかなり備蓄量があり、総人口を1年間養っても50万斛が余るほどです。ここから考えると少ない銅銭や布帛に替わり、米穀がお金の代わりに流通していたのかも知れません。
蜀の兵糧少なすぎ?
蜀の会計帳簿を見て、最初に目に付くのは兵糧が40万斛とかなり少ない事です。人口が94万人なのに40万斛とは、これで大飢饉でも起きたら食糧の放出が出来ずにかなりの人民が飢え死にする事になるでしょう。
ただ、前述しましたが、呉と異なり蜀錦とおぼしき布地が20万匹分もあり、これを放出する事で兵糧の調達は出来たかも知れませんので、一概に備えがないとは言えないかも知れません。
あと、蜀は94万の人口しかないのに官吏が4万人と人口の5%が役人です。さらには兵力が10万2千人と人口の1/10以上が兵力という軍事大国でもありました。呉は人口230万人で官吏が3万2千で人口の2%未満、兵力は23万人で人口の1/10が兵力。兵力の比率は蜀と同じですが、蜀は呉よりも官僚天国だったという事が出来そうです。
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孫晧は劉禅以上のスケベ大王
呉の会計帳簿を見て一番に目を引くのは、わざわざ記録された5千人の後宮の美女でしょう。兵糧は280万斛と多いのは準備万端ですが、後宮に5千人も美女がいたのでは、その経費が国力を傾けた事は容易に想像できます。
孫晧というと暴虐エピソードが強く、劉禅に比較してもスケベイメージは薄いですが、後宮に美女5千人という事は、劉禅に比較しても群を抜いてスケベだと推測されますね。
また、船が5千艘も残留しているのに、晋の王濬の進撃を止められない点を見ると、すでに呉の国内では晋に立ち向かう士気が乏しかったと考えられます。
実際に、孫晧が兵を集めても、戦う前に逃げてしまった事が記録されている事から、呉の大半の将兵には戦意がなかった事が裏付けられるかも知れません。
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