司馬朗は司馬懿の兄で、父や兄、弟と比べると早逝した人物です。とは言え、弟とかが尋常じゃなく長生きしているので比べると評価が難しい所はありますが。
さて彼自身は病死で、その際に彼が刺史をしていたエン州の民たちは嘆き悲しんだと言われていますね。これは彼が善政を行っていたからと言われていますので、今回はこの善政について見ていきたいと思います。
この記事の目次
曹操に召し出される司馬朗
諸説あってやや不確かなのですが、司馬朗は22歳の時、曹操に召し出されました。曹操は司馬朗を司空掾属とし、司馬朗はその後は成皋県令などの地方官吏を歴任していきます。司馬懿の兄とは言え、中々に重要な役職をやっていたと思われます。
ただ、ここで彼は一時的に病気で職を辞してしまいます。そして体調が良くなり復帰、そこで任命されたのが堂陽県長でした。
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司馬朗の善政
さて、ここで司馬朗が行った政治は寛大であり、民の多くが喜んだと言います。その善政と言われる内容ですが「鞭打ちや杖打ち(棒打ち)などの刑罰を用いることが無くても、民は罪を犯さなくなった」とされています。
基本的に政治では罰則に対して罪を定め、そこに刑罰を用いることで犯罪を抑圧するというのが一般的です。誰だって重い刑罰は受けたくないですからね。ただ司馬朗の場合、その刑罰を用いなくても罪を犯す人がいなくなった、というのです。
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刑罰も用いることが無かった司馬朗の政治
当時の刑罰としては重罪になると当然ながら死刑。この死刑を減刑する形で陳羣が肉刑を再開しませんか、という提案をしているという段階です。また文に出てくるように、鞭や杖で体を打たれるという刑罰があったようですね。
ただ、当然ながら鞭や杖で打たれたからどうということはない、という人もいなく、時に打たれたことで後遺症が残ってしまうということもままあったようです。
だからといって今日何か食べなければ死ぬようなほど追い詰められた人なら、窃盗を犯すこともあったでしょう。司馬朗の政治と言うのはそういう人を出さなかった、だから犯罪は減り、刑罰も用いることが無くなり、結果としてそれは「善政」となったのです。
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苛政猛虎
善政というのは貴重なものでした。それが分かるように、中国の故事には「苛政猛虎」という言葉があります。
それはある時、孔子がお墓の前で泣いている婦人に声をかけた時のことです。婦人はこの辺りには恐ろしく獰猛な虎が住み着いていて、夫の父親も、夫も自分の息子もその虎に喰われてしまったので泣いているというのです。
孔子は驚いて、そんな目にまであっているのにどうして他の場所に住まないのか、と尋ねました。婦人は答えました。「ここには厳しい政治がないからです」
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