皆さんもご存知、盧植先生。劉備、公孫サンの先生ですね。三国志演義では黄巾の乱で劉備と再会、しかし後に讒言によって陥れられ……なんやかんやで復帰した後は何もないままフェードアウトしてしまう人物でしたね。
しかし実際にはかなりの活躍をする人物でもあります。そこで今回は盧植先生と、彼に関係した賄賂のお話も少ししたいと思います。
この記事の目次
女に見向きもしない真面目学生盧植
盧植先生も昔から誰かに教える側であった訳ではありません。嘗ては後漢の名門、馬一族の馬融に師事し、儒学を学びました。
馬融は講義の際には多くの女性を侍らせて歌や舞を躍らせて、それを楽しみながら講義をするという様子でしたが、盧植は歌舞に目もくれず真面目に学問に取り組んでいました。このため馬融は盧植に敬意を持って接したそうです。
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お酒は大好きだった真面目学生盧植
このように盧植は学問に真面目に取り組んでいき、古今の書に通じる人物となりました。博学で節義もある人物だった盧植は多くの人に好かれ、しかしてその反面、この世の中を救いたい!という熱いハートも胸に秘めた青年だったようです。
因みにお酒は「一石ほど嗜んだ」とあります。漢時代の一石って31㎏という話を見たことがあるんですが……嗜んでいた……?
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九江蛮を退治したけど病気で引退し塾を始めた盧植先生
さて盧植は士官の誘いがあったようですがこれを辞退します。そして後に九江蛮が反乱を起こした際に「文武の才能がある人物」として九江太守に任命されました。学問に通じていたのは前述の通りですが、同時に武芸にも長じていたようです。
しかしこの後、病のため一時辞職。そして故郷で学び舎を開き、劉備や公孫サンといったご近所の子供たちに学問を教える先生となったのでした。三国志演義で劉備が「先生」と呼んでいるのはこのためですね。
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天を見たかい?by ccR
更にこの後、侍中となります。侍中というのは、簡単に言ってしまうと皇帝の秘書。もちろん優秀でなければお声がかからないような立場。しかしこの頃と言えば漢王室の権威は……のような時代でしたから、先生も大変だったかもしれませんね。
そして178年、盧植先生は天を見ます。日食が起こったのです。このため政治を正すように、と意見するも、霊帝がこれを聞き入れることはありませんでした。
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