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黄巾討伐で大活躍する盧植将軍
そして来たる184年。黄巾の乱が起こります。
北中郎将に任命された盧植は兵を集め、張角の討伐に向かいます。結果は連戦連勝!幾万もの敵兵を斬り倒し、張角を敗走にまで追い込みました。
それでも手を緩めず、包囲網を敷いて……いた所に、ある人物がやってきます。その名前は左豊。霊帝によって遣わされた宦官、軍の監察官でした。
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左豊への賄賂を断り更迭された上に投獄
ここで左豊は盧植先生に賄賂を要求します。つまり良い報告をして欲しかったら賄賂を渡せってことです。何たるアッカン!ヒレツ!おめーさては楊松だな!(左豊です)
盧植先生はこれを拒絶、しかしこれを腹立たしく思った左豊は霊帝に「盧植は戦おうとしません!」と嘘の報告をしたから大変!
霊帝はこの讒言を信じ込んで盧植を罪人として官職を剥奪、死刑を命じたのです。何たること!こいつあガッデムだ!やってやろうぜ劉備のアニキ!
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皇甫嵩のお陰で黄巾の乱は鎮圧できたが…ヒヤリ
そんなこんなしたために黄巾の乱で、有能な総大将を失ってしまった討伐軍は中々大変なことになってしまいました。
ここでもう一人の後漢の名将・皇甫嵩が平定した(更に相手の総大将がナイスタイミングで死亡)したから良いものの、これは霊帝の大きな判断ミスと言って良いでしょう。またその皇甫嵩が盧植の功績を大いに称えたので、盧植先生は何とか死罪は免れて復帰することになります。
因みに宦官たちへの募る怨恨はあったのか、何進が暗殺された時には参加し、逃げる宦官たちの前に鉞を持って対峙しました。
その後も董卓の暴虐に一人屈することなく意見を述べたりもしましたが、免職され、都から離れることに。
袁紹に軍師として迎え入れられるも、192年に病死したとあります。
後漢末期の時代が激動の時代なので、盧植先生も中々にハードな人生を送っていますね。ただ残念なのが賄賂で失脚したために、乱の鎮圧が遅れたこと。
もちろん左豊も憎らしいですが、同時にそれを許す基盤を作っている霊帝、そして……もうちょっとだけ盧植先生が柔軟なやり取りができたら。なんて、ほんの少しだけ思ってしまう、筆者でした。
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三国志ライター センのひとりごと
因みに袁家は後に曹操が討伐吸収してしまいますが、この時に曹操は盧植先生の故郷を通ります。曹操は盧植の功績を称え、子供たちは官職に付けられたそうです。
皇甫嵩もそうですが、後漢末期の時代は決して最初から最期までダメということはなく、優秀な人材も多くいたんですよね。でも霊帝は彼らを使いこなせなかった。更に言うと途中で死んだので、献帝に「後漢最後の皇帝」までやらせてしまったんですよね……死期は仕方ないかもしれませんが。
うーん、何とも苦々しい気持ちになる、筆者でした。
ちゃぽーん。
参考文献:後漢書盧植伝 蜀書先主伝
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