どんな家庭にも、その家の家風というものがあります。例えば親が公務員や銀行員だと子供もその影響でキッチリした人間になったりします。三国志の時代にも、そういう事はあり司馬懿の父、司馬防は息子達に厳しいスパルタ親父でした。
では、どうして司馬防はスパルタだったのでしょうか?
この記事の目次
司馬儁の子として誕生
司馬防は西暦149年、司隷河内郡温県に穎川太守司馬儁の子として誕生します。
司馬氏はキングダムにも登場する司馬尚の子、殷王司馬卬の末裔であり、司馬防の曾祖父司馬鈞は左馮翊で征西将軍を代行して西羌を撃ち破った将軍でした。
ただ、司馬鈞の人生は平穏とはいかず、自分の命令を無視して敵の罠にかかって窮地に陥った部下を救援せず見殺しにした罪で獄に下され自殺しました。
このような家柄で、司馬防は質実剛健に成長し、寛いでいる時も姿勢を正して座り、鼻をほじるとかおならプーするとか、冗談を言うとか、そういう事もなかったようです。
8人誕生した子供に対する接し方も非常に厳しく、息子達が成人して後も許可がなければ部屋に入れず、座れと言わない限り座れず、話せと言わない限り口を聞いてもいけないスパルタぶりでした。
だらしない親父もイヤですが、だからって冗談も言えない厳しい親父もなんだかなって感じです。司馬懿も冗談が通じないイメージがありますが、それは父、司馬防の影響かも知れません。
曹操を洛陽北部都尉に推挙する
司馬防は尚書右丞の官に会った頃に孝廉に挙げられていた若き曹操を洛陽北部都尉に起用しています。
洛陽北部都尉というのは役職名ではなく、当時の洛陽城に東西南北4カ所あった城門の北門を守る警察官兼軍人のような存在でした。銅銭1億枚で太尉の地位を買う父を持つ曹操からすれば、北部都尉は端役でしたが曹操は全力で職務を遂行しました。
腐り落ちていた北部門を修理し、有名無実と化していた夜間通行禁止の鉄則を復活させると、門の内外に五色棒と呼ばれる棍棒を何本も下げ、「夜中に門を通る者は法により叩き殺す」と貼り紙を出したのです。
しかし、当時、霊帝の寵愛を受けていた宦官蹇碩の叔父が「曹操に恥をかかせてやろう」と堂々と夜中に北部門を通過しようとします。もちろん曹操は「私は蹇碩の叔父だぞ!」と喚く男を容赦なく刑罰台に乗せると五色棒で何度も叩いて撲殺。
この話を聞いて洛陽のパリピは震え上がり、夜中に北部門を通る人間はいなくなりました。
司馬防が、曹操の性格を知った上で推挙したかは不明ですが、曹操が栄転の形で北部都尉から飛ばされた時も司馬防はお咎めなしでした。
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司馬朗に命じて家族を故郷に避難させる。
西暦190年、司馬防は治書御史に任命されました。この役職は御史台に属し、法律に基づいて疑獄事件の処理を担当する仕事だそうで、厳格な司馬防に向いています。
前年より、董卓が霊帝死後の混乱を制して洛陽を支配し少帝を廃して献帝を擁立し専横を極めていました。
反董卓連合軍が起きたので、董卓は洛陽遷都を決意し、司馬防は家族もろとも長安に移動する事になりますが、司馬坊はろくでもない結末を予期してか長男司馬朗に命じて家族を故郷の温県に帰還させようとします。
ところが、この会話が漏れていて、何者かが司馬朗は洛陽から逃げようとしていますと讒言したので司馬朗は董卓に捕まり、あやうく殺される所でしたが赦され、司馬朗は董卓の周辺に賄賂をばら撒いて買収し、何とか一族が逃げる事に成功しました。
グズグズして長安にいたら、間もなく起きた李傕と郭汜の暴政で司馬兄弟も何名か犠牲になったかも知れませんからナイスな判断です。
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魏王になった曹操に、俺を端役に飛ばしたなと言われて
その後の経緯は不明ですが、司馬防は州郡に取り立てを受け、洛陽県令や京兆尹を歴任し老年になると騎都尉に転任しました。引退後は、自分の生き方を守り故郷に引っ込んで門を閉ざし晩年を過ごしたそうです。
曹操が魏王に就任した時、司馬防を鄴まで呼び出して昔話をした事があり、その時曹操は「今でも私を尉に推挙するか?」と聞いたそうです。
司馬防は「昔、王を推挙した時は、その官職がちょうど良かったまでの事でございます」と返答。曹操は大笑いをしました。
曹操としては
「俺を端役に飛ばしやがって、魏王になった今でも同じことを言うか、どうだ?」と出世した自分に司馬防がどう反応するか見たかったのですが、司馬防は「あの頃のやんちゃなあなたには門番の隊長が適任でした」と何もお世辞を言わずに言い返したので、お前は昔と変わらんなと大笑いしたという話です。
ちなみに曹操と司馬防は、司馬防が6歳上なだけで、そこまで年が離れているわけではありません。
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どうして老年になって騎都尉になったのか?
厳格な性格で、まっすぐに人生を生きた司馬防ですが1つだけ分からない事があります。司馬防は老年になってから騎都尉に転任したという一文がある事です。
騎都尉は皇帝直属の羽林騎を中郎将と統括する仕事で、そういう仕事の性質上、馬に乗ったり仕事としては肉体を使う老年にはしんどい作業です。
ずっと検察官や長安の都知事のようなデスクワークをしてきた司馬防がどうして、老齢になってからそんな180度違う仕事に就いたのか?そう思って色々調べてみると騎都尉になると、西域都護の役職が加えられる事が分かりました。
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星一徹のように息子に将軍の星を目指させた?
西域都護は長安からシルクロードに向けての異民族を統括する地位で、後漢では班超が有名です。
また、司馬防の曾祖父の司馬鈞は左馮翊の役職で、京兆尹、右扶風と共に参議にも参加し、8000騎を率い羌族を撃ち破った経歴を持ち行征西将軍にもなりました。
もしかして司馬防は曾祖父に憧れ、曾祖父が成れなかった征西将軍や班超がついた西域都護になるのが生涯の夢だったのではないでしょうか?
だからこそ、若い頃から自分を厳しく律し結婚後は、スパルタ教育で息子達を鍛え、自分は無理でも息子の代には、司馬氏から将軍を出そうと考えていたのでは?
司馬防は西暦219年、71歳で死去します。
通典によると次男の司馬懿は西暦232年に征西大将軍になっています。司馬懿にとっては高祖父、司馬鈞が代行に留まった征西大将軍への就任ですが、死んだ司馬防もやっと我が家から将軍が出たと厳しい顔を緩めたかも知れませんね。
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三国志ライターkawausoの独り言
司馬懿は三国志演義では軍師風ですが、史実ではどんな強行軍でもビクともしない頑強な肉体を持つ将軍として活躍しています。それはたまたまかと思っていましたが、司馬防のスパルタ教育の目的が我が家から将軍を出すためだとしたら、なんだか辻褄があってしまいませんか?
スパルタ親父司馬防は、意味もなく厳しかったのではなく、星一徹のように息子達を将軍の星にしたかったのです。多分…