馬謖は蜀(221年~263年)の将軍です。劉備に仕えた馬良の弟であり才能があったので、諸葛亮から非常に可愛がられました。
しかし蜀の建興6年(228年)の諸葛亮の第1次北伐で魏(220年~265年)に大敗したので、軍律により死罪となります。その際に諸葛亮は涙を流したそうです。どんなに優秀な人物でも、法や規律を曲げて責任を不問にすることはよくない意味から、「泣いて馬謖を斬る」ということわざが生まれました。
さて、史実の馬謖はどんな人物なのでしょうか?今回は史実の馬謖を解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
劉備からは低評価
馬謖が劉備の部下になった正確な時期は不明ですが、兄の馬良は建安14年(209年)なので、同時期と見て間違いないでしょう。才能は人並み外れており、好んで軍事戦略を論じていたことから、諸葛亮は非常に高く評価しています。
ただし、劉備は諸葛亮にこんな注意を促していました。
「馬謖が言っているのは机上の空論だ。重く用いると、とんでもない目にあうぞ。君はそのことをよく覚えておけ」
ところが諸葛亮は、この劉備の忠告の意味が分からないのか、彼の死後も馬謖を丁重に扱います。
第1次北伐の失敗
蜀の建興6年(228年)に諸葛亮は魏を討伐するために出兵します。この時、先鋒の将軍は経験豊富な魏延・呉懿を選んだ方がよいと周囲は言いました。
だが諸葛亮は、その意見を無視して馬謖を抜擢します。一応、副将には経験豊富な王平がついていきます。
さて、問題はこの後です。
街亭に到着した馬謖は水路を確保せずに、いきなり山頂に陣を構えます。水路を魏に占拠されたら一巻の終わりです。王平は何度も注意しますが、馬謖は全く耳を貸してくれません。
結局、馬謖は山頂に陣を構えて、王平は別行動をとることにします。王平の予想した通り山を包囲されたので馬謖は身動きがとれなくなり、魏に惨敗しました。王平は陣太鼓をたくさん鳴らして、伏兵がいるように見せかけて奮戦したので壊滅は免れますが、この街亭の敗戦により、第1次北伐は失敗して撤退となります。
馬謖の死の謎
戦後、馬謖は責任をとり死罪となります。しかし、彼の死に関しては『三国志』の中身により異説があります。
(1)処刑説・・・・・・諸葛亮伝、王平伝
(2)獄死説・・・・・・馬謖伝
(3)逃亡説・・・・・・向朗伝
(1)は有名な話で説明不要です。(2)は投獄中にこの世を去った。(3)は馬謖の友人の向朗が、馬謖を逃がしてしまい、その後の消息は不明という話です。
これぞまさにミステリー!それでは処刑された馬謖は誰?
実は影武者だった!
・・・・・・冗談はここまでにして、筆者なりの解釈をします。馬謖は向朗により獄から逃がされたのですけど、途中で捕縛されて獄に戻されます。あとは獄中で殺された。獄死も処刑も同じと筆者は推測しています。
岳飛や蒙恬も獄死という扱いですけど実際は獄内で殺されていますから・・・・・・
関連記事:馬謖の息子はどうなった?街亭の戦いの失敗による処罰で影響はあった?
馬謖の功績 南蛮戦
机上の空論だった馬謖ですけど、彼のおかげで成功した戦があります。それは孟獲と戦った南蛮戦です。
蜀の章武3年(223年)の劉備の死に乗じて南蛮において孟獲・雍闓・高定・朱褒の4人の少数民族の首長が反乱を起こしました。軍の準備を整えた諸葛亮は建興3年(225年)に彼らの討伐に向かいました。この時、馬謖は諸葛亮を途中まで見送りに行きます。
諸葛亮は馬謖に良策は無いか尋ねたところ、次のような答えが返りました。
「そもそも用兵の道は心を攻めることを上策としていますが、武器による戦いを下策としています。どうか南蛮の人々の心を心服させてください」
納得した諸葛亮は南蛮に向かい、首領の孟獲を七回捕縛して七回解放する「七縦七禽」が行います。結果は馬謖の言った通り、孟獲は七回目の解放でギブアップを宣言。蜀の勝利に終わります。これも教科書の理論ですけど馬謖の生涯で最大の功績と言っても間違いないでしょう。
三国志ライター 晃の独り言
以上が史実の馬謖に関する記述でした。馬謖は南蛮戦の功績からいくと、戦場に出て戦う将軍というよりも状況分析を行う軍師の方が合っていた感じがします。もしかしたら諸葛亮も経験のためと思って、馬謖に先鋒をやらせたのでしょうかね?
でも北伐は大事な勝負ですから、やっぱり魏延や呉懿に任せるべきでした。ちなみに、街亭の敗戦の時に正史『三国志』著者の陳寿の父も処罰を受けています。髪を切るという当時の中国人にとっては、非常に屈辱的な刑罰を受けました。
陳寿は諸葛亮を誉めますが、さりげない悪口も書いているのです。その理由は父を諸葛亮からひどい目にあわされたからと考えられています。
※参考文献
・菊池良輝「蜀朝の執権・諸葛亮(劉封の処刑・三顧の礼・馬謖の死・北伐)」(『千葉敬愛短期大学紀要』20 1998年)
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