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滅亡への兆し
陸抗と陸凱が亡くなると孫晧の「暴君」を止める者は国内に居なくなり、彼は暴れまわります。自らを見た家臣に対して、「貴様の目が気に入らん」と言って目玉をくりぬいたり、気に食わない宮女が居れば、皮を剥いで殺したり、悪逆非道の限りを尽くします。このような暴虐を繰り返し、呉の群臣達は彼に従わなくなっていきます。君臣一体でなくなった呉国の隙をついて、晋の司馬炎(しばえん)は呉の国へ六方面から侵攻を開始します。
呉の滅亡
孫晧は晋の軍勢が六方面から侵攻してくると聞き、丞相張悌(ちょうてい)に命じて、迎撃するよう命じます。張悌は諸葛誕(しょかつたん)の息子・諸葛靚(しょかつせい)らを率いて晋軍迎撃に出ます。しかし張悌率いる呉軍は、晋軍の凄まじい攻撃と統率ある動きによって敗北。張悌は呉の国を守れなかった事を恥じて敵陣に突撃して亡くなります。その後晋軍が六方面から建業を包囲。孫晧は降伏を決意。降伏する前に群臣を集め「今日、呉が滅亡するのはすべて私のせいだ。許してくれ。呉の滅亡後君たちは私に遠慮する事無く、晋に尽くせ。」と後悔と謝罪を群臣に述べた後、降伏します。呉の滅亡により、三国時代は幕を閉じる事になるのです。
機転を利かせ、司馬炎にやり返す
孫晧は晋に降伏すると司馬炎とまみえます。司馬炎は孫晧に会うと「朕(ちん=皇帝が自らを呼ぶときに使う敬称)はこの座であなたを久しく待っていた。」と語ります。すると孫晧は「私も南方で座を設け陛下が来るのをずっと待っていました。」ときりかえし、司馬炎の周りに居る臣下達を慌てさせます。司馬炎はある日家臣と碁を打っている最中に孫晧を呼びます。司馬炎は孫晧に「君はなぜ人に皮を剥ぐような行為をしたんだ」と問いかけます。すると孫晧はすかさず司馬炎に「君主に無礼な行いをする臣下が多いので顔の皮を剥ぎました」と足を延ばしながら司馬炎と碁を打っている家臣を見ながら答えます。この話を聞いた家臣はすぐさま姿勢を正します。こうして司馬炎の質問に鋭いきりかえしをし続けた孫晧は降伏から四年後に亡くなってしまいます。
三国志ライター黒田廉の独り言
暴君の名をほしいままにした孫晧ですが、降伏後の司馬炎とのやり取りをみているとただの「暴君」ではないような気がしてなりません。彼が「暴君」に変化したのは呉の国を取り巻く状況に嫌気がさし、自暴自棄になったからではないでしょうか。呉の名将の息子陸抗や気骨ある宰相陸凱が居たとしても状況としてはあまり良くならない厳しい状態であった呉。蜀が滅び、呉の人口はますます中原に流れて行く事で、減少の一途を辿り、徴兵できる兵の数は少なり、商業や農業を行う住民は減っていきます。さらに人材は先ほど挙げた二人以外に頼りになる人材はいませんでした。頭が良かった孫晧はこの状態の呉を建て直すのは無理と悟り、あのような暴君になってしまったのではないかと私は思います。