呉は孫策(そんさく)が礎を築き、孫権(そんけん)が安定させた事で大いに栄えます。しかし孫策・孫権の父親を知らずに、彼らを知る事はできないと思います。そこで今回は江東の虎として董卓を震え上がらせ、曹操や劉備と同世代の武将として活躍した孫堅(そんけん)の生涯を紹介していきたいと思います。
この記事の目次
孫堅の先祖は一体何者か
孫堅の先祖はかの有名な「孫氏の兵法書」を記した孫武だとされていますが、その真偽は定かではありません。ただ一つ分かっている事は、彼の直近の先祖は「瓜を作って飢えを凌いでいた」と正史「三国志」の孫破虜討逆伝(そんはりょとうぎゃくれつでん)に記されております。
警備隊長に任命される
孫堅は呉郡出身の人物で、父と共に呉郡一帯で漁師をして、生計を立てておりました。ある日父と共に漁に励んでいると海辺で、海賊が近辺の村々を襲っている姿を目撃。孫堅は一人で海辺に降りると、賊を撃退する為に兵士を率いている様に振舞います。その後孫堅は賊に接近します。村を荒らしていた賊は孫堅が兵士を率いていると思い込み、急いで逃走を開始。孫堅は逃げる賊を一人で追いかけ、賊の頭領を斬り殺します。彼は賊の頭領の首を役所へ差し出すと、その功績が認められ村を警備する隊長に任命します。
天下を揺るがした黄巾の乱
孫堅は警備隊長を務めた後、県令の補佐官などを歴任します。孫堅が県令の補佐官として職務に励んでいた頃、天下を揺るがす大反乱が発生。三国時代の幕開けとなった黄巾の乱です。
朱儁の部下として黄巾討伐に参加
朱儁は黄巾の乱が発生すると、朝廷から将軍に任命されます。彼は勇猛で優秀な部下を得るため、江東で名が知られ始めた孫堅に目を付けます。朱儁は孫堅に手紙を送り、
「私の部下となって黄巾討伐に参加してくれないか。」と依頼。
孫堅は朱儁の依頼に快諾し、村の若者に声をかけます。すると千人ほどが孫堅の元に集まります。彼はこの千人を率いて朱儁の元へ向かいます。孫堅は朱儁の元に着くと、彼と共に各地を転戦。孫堅は朱儁の元で華々しい活躍を行い、武功を挙げていきます。
韓遂・辺章の乱
孫堅は黄巾の乱が鎮圧された後、司空である張温(ちょうおん)から「涼州で反乱を起こした韓遂(かんすい)と辺章(へんしょう)を討伐するため、長安にすぐにこい」と命令を受けます。彼は張温の命令を受け長安へ向かいます。その後韓遂・辺章討伐軍に参加。孫堅はこの戦いでも優れた武功を残し、涼州や朝廷の臣にその勇猛さと共に彼の名を轟かせます。
董卓との対立
韓遂・辺章の反乱は孫堅や皇甫嵩ら諸将の活躍により鎮圧します。孫堅は反乱鎮定後、司空張温に「董卓は幷州刺史(へいしゅうしし)でありながら、韓遂や辺章らを取り締まらなかった事が原因で反乱が起きたのであり、彼の罪は非常に重い。そのため彼を罰して、漢王朝の刑罰の意味をしっかりと天下に示したほうが良い。」と進言。しかし張温は董卓にビビッて、彼の進言を受け入れませんでした。だが民衆や朝廷の臣は、董卓を恐れず進言をした孫堅の勇気を褒め称えます。孫堅は黄巾の乱と韓遂・辺章の反乱の鎮定で挙げた武功が朝廷に認められ、長沙(ちょうさ)太守に任命されます。
民衆のヒーロー登場
孫堅は長沙太守として任地へ赴きます。しかし領内では賊が暴れまわっており、人心は荒廃しておりました。彼は長沙の民衆を安心させるため、領地で兵を募兵し、一万人程を集めます。孫堅は集まった一万人程の兵を率いて、長沙で暴れまわっていた賊を討伐。こうして長沙の平和を取り戻します。しかし彼は一万人の兵を率いて長沙を出て、隣の零陵郡と桂陽郡に居た賊を倒します。孫堅の活躍により長沙近辺から賊の姿は無くなり、民衆の平和を取り戻します。民衆は孫堅を褒め称え、彼に良く懐き、彼の政治に積極的に協力します。朝廷は孫堅の活躍を認め、鳥程侯(うていこう)に封じます。
三国志ライター黒田廉の独り言
孫堅は勇猛果敢で、戦ではほとんど負ける事はありませんでした。また民衆から慕われる性格で、統治者としても優れておりました。彼の戦に強い部分を長男である孫策が受け継ぎ、統治者として優れていた部分は次男孫権が受け継ぎます。こうして彼のいい部分を半分ずつ受け継いだ二人の英傑によって、三国の一つである呉の建国を作っていく事になります。孫堅は黄巾討伐や涼州で起こった韓遂(かんすい)・辺章(へんしょう)の反乱鎮定で功績を挙げ長沙太守に任命されます。彼はその後任地で暴れていた長沙や近辺の賊を鎮定。この功績から鳥程侯(うていこう)に取り立てられ、天下に彼の名が知られる事になります。
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