西暦220年、三国志の風雲児、曹操(そうそう)は65年の生涯を閉じます。そこに至って曹操は遺言書を残しているのですが、それは、天下の3分の2を支配した絶対権力者とも思えないような、簡単で現実的なものでした。
曹操の遺言書の内容
「天下は、まだ定まったとは言えないから、葬儀に長い時間を掛けるな。葬儀が済んだら、直ちに、文官は、持ち場に戻り、武官は鎧を着て矛を持ち、敵に備える事を怠ってはならぬ。副葬品として金銀を入れるような事はするな、死に装束も普段着でよい」
いかにも合理主義者らしい曹操の遺言ですが、一方で、曹操は、自分の死後に残される13名の夫人達にも、実に事細かく、指示を出しています。
曹操の夫人達にも指示を出す
「葬儀が済んで残った香は、夫人たちに分け与えておきなさい。それから余の側室のなかには職がないもの達がいるだろうから職人を手配してやって、組み紐の飾りをつけた下駄の作り方を習わせ、それを売って生計を立てるように指導しなさい」
曹操の夫人は13名もいましたが、曹操の子供を産んでいない夫人は最悪、宮殿を追い出される可能性もありました。もちろん、夫人達の面倒を見るように曹操は、後継者の曹丕(そうひ)にも厳しく言っている筈ですが、それを履行するかしないかは、後を継いだ、曹丕次第という所もあります。
曹操は予め曹丕対策をしていた
そうでなくても曹丕は曹操とはソリが合わない所があり、曹操は内心では、曹植(そうしょく)を後継者にしようと思っていた位でした。そこで最悪、曹丕が曹操の夫人達を外へ放り出した時に、夫人達が路頭に迷う事がないように飾り紐がついた下駄の造り方を職人に習わせて手に職をつけさせようと曹操は思いついたのです。
曹操は愛妻家だった
自分がいよいよ、最期を迎えようと言う時に、残される夫人の事を細かく考えていた曹操は、当時としてはかなりの愛妻家だと言えるのではないでしょうか?
三国志演義では、兎角、冷酷非情な側面が強調されがちな曹操ですが、それは、自分のライバルになりそうな者達に対してであって、自分が愛情を注いだ夫人達に対しては、最期まで優しい夫だったのです。ただの未亡人好きのスケベ親父ではなかったんですね。
いえーい、惚れちゃうぜ曹操!!
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