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11話:パンドラの箱を開けた漢王朝

2014年12月7日


 

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パンドラの箱 漢王朝

 

黄巾賊の乱と漢王朝について。。。

西暦184年2月に起きた黄巾賊の武装蜂起は、たった9カ月で終息します。

しかし、それは漢王朝の屋台骨を揺るがすには充分でした。

 

前回記事:実は、最初から作戦に失敗していた黄巾賊

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



当時の中国王朝の政治システム

宋代の公務員試験である科挙

 

中央集権体制下の中国王朝では、「官」と「吏」が政治を支える二重のシステムでした。

日本では官吏(かんり)とくっつけて呼ばれますが、中国では官と吏は別です。

 

官は、中央政権に参画するキャリア官僚で、地方の県令から順調に出世して、

中央の政治に関わる存在になっていきます。

一方で吏は、地方で採用され官に仕え、一生をそこで終える存在でした。

 

つまり、吏の立場になると、どんなに優秀でも、お呼びが掛からない限り

中央政界にデビューする事は決して無いのです。

 

歴代の中国王朝は、こうして多くの吏を地方において、下役にして使い。

中央には官を置いて、吏を支配するという体制を取っていました。

 

黄巾の乱で支配体制が崩壊してしまった

暴れる黄巾党008

後漢王朝もそういう支配体制を敷いていましたが、

黄巾の乱で原則が崩壊してしまいます。

 

漢の正規軍は弱く、単独では黄巾賊と戦えない為に、

地方の諸候の軍勢や義勇兵の農民を正規軍に加えて戦う羽目になったのです。

 

呉の孫堅

 

そのように正規軍に組み込まれた軍には、孫堅や、

菫卓、そして劉備のような人々がいます。

 

彼等は、戦争に強いので、採用され地方の争乱の鎮圧を命じられた

下級の役人であり、平時なら決して中央に昇る事はありませんでした。

 

ところが、黄巾の乱が、彼等を中央に招き寄せてしまったのです。

 

少しずつ歯車がずれていく漢王朝

王族ボンビーから一転セレブ09 霊帝

 

西暦189年、霊帝が死去し、宦官の十常侍との勢力争いをしていた

外戚の何進は、宦官を皆殺しにして、宮廷の腐敗を一掃しようとします。

 

 

しかし、妹である何皇后が、十常侍の肩を持ち和解するように促すので、

思うように、事を進める事が出来ませんでした。

 

袁紹が宦官を惨殺に行く

 

そこで、何進は、部下の袁紹と協議し何皇后にプレッシャーを掛ける為に

菫卓等のような、地方の軍閥に洛陽に上るように命令を出します。

 

何進の中には、地方の軍閥を上手く使ってやろうという考えがあったのでしょう。

ですが、何進の浅墓な行動は、後漢王朝の滅亡を早めてしまいます。

 

董卓

 

菫卓は、洛陽に軍を進めますが、その間に何進は、騙されて十常侍に暗殺され、

逆上した配下の袁紹は、軍を率いて宮殿に乱入し宦官を皆殺しにします。

 

大混乱に陥った十常侍の段珪(だんけい)は皇帝である、

少帝(劉弁)と劉協(後の献帝)を連れて王宮を脱出します。

 

そして、運悪く、段珪は、洛陽に進軍してくる菫卓の軍勢3000名に目撃され

逃げ切れないと思った段珪は受水自殺したのです。

 

董卓によって救出された少帝と劉協の二人

董卓 はじめての三国志 ゆるい

 

少帝と劉協の二人は、菫卓(とうたく)によって救出されてしまいます。

こうして、大混乱に陥った洛陽に菫卓は、皇帝を擁護して堂々と入場するのです。

 

この後に何が起きたかは、三国志をご存じの方には説明不用でしょう。

 

何進は、自分の欲望の為に、地方の軍閥を引き入れるという愚策を実行しましたが、

その契機は、黄巾賊の叛乱により地方軍閥の力が中央に認識された

という事にあったのでした。

 

黄巾の乱が無ければ、菫卓は一生を辺境民族を討伐する地方役人で終わり、

決して、中央に上り、皇帝の如く振る舞う事も無かったのです。

 

次回記事:12話:黄巾賊の反乱を平定した漢王朝と残念なくらい無能な霊帝

 

 

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