中国の歴代王朝が編さんした史書の多くに、『東夷伝(とういでん)』と呼ばれる一節があります。『東夷(とうい)』とは、漢民族を中心とした中華世界より東に住む異民族を指し、主に『韓(かん)』と『倭(わ)』、つまり朝鮮と日本のことを意味しています。
陳寿(ちんじゅ)によって編さんされた正史『三国志』の中にも、『東夷伝』はあります。中でも、日本人にとって重要と言えるのが『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』でしょう。
正確には、『三国志』の一書である『魏志(ぎし)』、その第30巻『烏丸鮮卑東夷伝』(うがんせんぴとういでん)に含まれる『倭国(わこく)』と『倭人(わじん)』に関する記述の略称が『魏志倭人伝』となります。
この記事の目次
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)についてもっと詳しく解説!
『魏志倭人伝』は中国の史書としては初めて倭国(日本)に関するまとまった記述が書かれた、中国史にとって重要な文献であると共に、私たち日本人にとっても、日本の歴史を知るための重要な手がかりとなるものです。
『魏志倭人伝』に登場するのが、かの『邪馬台国(やまたいこく)』です。邪馬台国は1世紀の中頃から2世紀の初頭に成立した国家で、30ほどの国からなる倭国の都がここに置かれていたとされています。
関連記事:曹真が余計な事をするから邪馬台国の場所が特定出来なくなった?
魏志倭人伝から分かる当時の日本
『魏志倭人伝』によれば、邪馬台国の建国から70~80年ほど経過したころ、倭国全体で大きな騒乱が起こりました。
それまで邪馬台国の王は男が務めていましたが、あらたに卑弥呼(ひみこ)という女王が共立されて、ようやく騒乱が収まったとされています。
卑弥呼、魏に使者を送る
西暦238年、卑弥呼は使節を魏に派遣し、当時の魏の皇帝だった曹叡(そうえい)に拝謁、男4人、女6人の生口(せいこう。奴隷のこと)を献上しました。
曹叡はたいそう喜び、卑弥呼を『親魏倭王(しんぎわおう)』に任じて、金印と銀印を与えました。
魏志倭人伝による当時の日本の男性はどんな外観をしていたのか?
『魏志倭人伝』の表記によると、当時の倭人=日本人の男性は皆、顔や身体に刺青をしていました。刺青は階級によってそれぞれ違いがあったようです。刺青には厄除けの意味もあり、漁師たちは獰猛な魚を避けるための刺青をし、水に潜って小魚や貝をとっていました。
なにか特別なことをする時には、倭人たちは必ず占いをしました。その占いは『卜(ぼく)』と呼ばれるもので、骨を焼き、それによって生じる割れ目を読むことで行われました。
卑弥呼亡き後の当時の日本は?
卑弥呼が没した後、倭国は再び乱れましたが、新たに13歳の少女『壹與(いよ)』が
女王の座につき、国を収めました。
魏に代わって成立した晋(しん)の皇帝=司馬炎(しばえん)に壹與の使節が朝見した記録が『日本書紀』に残されており、邪馬台国と中国の関係が長く続いたことが読み取れます。
関連記事:司馬炎(しばえん)ってどんな人?三国時代を終わらせたスケベ天下人
関連記事:諸葛誕(しょかつたん)ってどんな人?魏の「狗」も名声を得ていた魏の諸葛一族
『魏志倭人伝』最大の謎、邪馬台国はどこにあるのか?
『魏志倭人伝』最大の謎と言えるのが、邪馬台国の場所に関する表記です。『魏志倭人伝』の記述通りに邪馬台国を目指すと、日本列島を飛び越して太平洋に飛び出てしまうことが分かっています。
そのため、邪馬台国の場所は今もなお謎とされています。邪馬台国がどこにあったのかは今も諸説ありますが、今の京都に近いとする『畿内(きない)説』と、九州にあったとする『九州説』の二つが有力視されています。『三国志』の時代の中国と日本との間に強い結びつきがあったというのは、現代の私たちの目から見ても、とても興味深いところですよね。
関連記事:「危うく抹殺されそうになりました、陳寿さんのおかげです」卑弥呼より
関連記事:三国志の生みの親であり歴史家の矜持を悩ます歴史書編纂の裏事情