菫卓(とうたく)というと、三国志においては、暴虐のシンボルであり、個人の武勇は凄いが、頭は李儒のような軍師を除けばタリラリラン♪という印象なのではないでしょうか?
しかし、三国志演義の悪玉という偏見を除くと、意外にも、気前の良い大将らしい大将の側面が見えてきます。
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董卓の若い頃はどんな人だったの?
若い頃の菫卓は、異民族であり幾度も漢の領地に侵入した羌族と交遊を結んでいたという記録があります。今からではイメージしにくいのですが、当時の漢民族は、侵略者である羌族を野蛮人として差別していて、対等に交わるなど思いもよらない事でした。
しかし、菫卓は漢民族でありながら、そのような偏見とは無縁で、羌族の顔役とは全て顔馴染みになっています。
董卓は羌族の族長達から歓迎されていた
ある時、羌族の族長達が、菫卓の自宅に訪問した時には、菫卓は、飼っていた農耕牛を何頭も潰して振舞って歓迎しています。その事に感激した族長達は、返礼として獣蓄千頭を菫卓に贈り物として渡しています。「感謝」ではなく「感激」です、いかに当時、漢民族が羌族を野蛮人扱いしまともに付き合おうとしなかったか分かります。
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董卓、異民族討伐のプロ
菫卓は、後に司馬として、軍勢を率いて羌族の叛乱を討伐して、羌族一万人あまりを討ちとっていますが、それには、この時に培った人脈が大きく役に立った事でしょう。菫卓はこの功績で、絹織物7千疋を賜りますが、これを全て、家来達に分け与えています、気前が良いというのも菫卓の特徴の一つです。
後に菫卓は、西域戊己校尉(せいいき・ぼき・こうい)という異民族討伐の将軍の地位について、100回以上も羌族と戦っています。100回戦っても、決定的な敗北もしなければ、囚われもしないというのは、菫卓が羌族の有力者と繋がっていた証拠ではないでしょうか?
言葉は悪いですが、ある程度の羌族の略奪行為には目をつぶり、度を超すと、兵を出しながら、族長と交渉をつけて兵を治める。このような、硬軟取りまぜた異民族の統治方法が、100回という菫卓の戦歴を物語っているように思えます。
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董卓も当初は善政を敷こうと努力してた
さて、洛陽に入った菫卓も、当初は、天下の賢人を招聘して善政を敷こうと努力しています。一例を挙げますと、漢王室の臣である、侍中の伍瓊、吏部尚書の周珌、尚書の鄭泰、長史の何顒らに人事権を委任しています。
これは「独裁をするつもりはないよ、漢王室を尊重しますよ」という菫卓の意志表示とも取れます。
そして、荀爽を司空、劉岱を兗州刺史、韓馥を冀州刺史、張邈を陳留太守、張咨を南陽太守として低下した漢王朝の力を立てなおそうともしています。また、宦官と敵対して殺害された陳蕃らの名誉を回復するなどの措置を取るなど、決して暴力ばかりではない対応をしています。
董卓は袁紹も殺そうとしていた
少帝廃位に反対して逃げ去った袁紹も当初は殺そうとしますが、袁家の影響力を恐れて、軍を出さず渤海太守に任命するなどして懐柔しています。ですが、どのように謙った対応をしても、菫卓に反発する勢力は減らず、逆に増加するばかりでした。
独裁政治のきっかけ
菫卓が引き立てた人士も、蔡邕(さいゆう)を除いては、反抗的でしかなく「身分賤しき田舎者風情の命令など聞けるものか!」という態度でした。異民族の羌族とさえ、仲良く付き合ってきた菫卓に取って、身分の高い文官達の自分への差別心は、怒りを覚えるのに充分だったでしょう。
「洛陽の混乱を収拾し、漢王室を復興させたのは誰か?この儂ではないか!身分だけ高い、あの文官連中が一体何をしたと言うのだ?」
ここで菫卓は、豹変し、恐怖で反抗的な者達を従わせる恐怖政治へとシフトして行ったのかも知れません。
「所詮、身分が低い儂が、どんなに謙っても、身分差別は消えない、、それならば、力で抑えつけるしかない、儂は儂のやり方を貫くぞ」
もし、菫卓がもう少し、身分の高い家柄に生まれて、宮廷の名士達の尊敬を勝ち得る事が出来たなら、菫卓の暴政もなく三国時代の群雄割拠も無かったかも知れませんね。
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