西暦192年、青州では、黄巾賊が再び勢いを盛り返し、各地で猛威を奮います。兗州の刺史である劉岱は、これを迎え撃ちますが、30万人という大軍の前に呆気なく敗れ、戦死してしまいました。
曹操の参謀・陳宮が動く
空白になった兗州の刺史の地位を巡り、曹操の参謀である陳宮が動きます。陳宮は、劉岱の副官である鮑信に働きかけ曹操を兗州の牧にする事に成功します。
しかし、兗州牧になった曹操の前に暴れ回る黄巾賊という難題が横たわっていました。曹操の持ち軍は、1万以下でしたが、それでも黄巾賊の30万人を平定します。これは、どう考えてもミラクルですよね?
たった1万人以下で30万人の敵をどう撃破したのか?
そこには、曹操と黄巾賊の密約があったのです。
曹操と黄巾賊の密約は何?
実は曹操は、西暦184年の黄巾賊の乱の頃にも青州に駐屯していた事があります。そこで、曹操は青州の民がどうして黄巾賊として蜂起したかを調べています。黄巾賊を倒すだけで満足するのではなく、どうして乱が起きたかを調べるというのは、曹操の非凡な政治手腕を窺わせます。
当時の青州では腐敗役人が大手を振ってまかり通っていました。彼等は、各地に適当に造り上げた神の祠を立てると、「神のお告げ」だと称して、人民から税を絞り取っていたのです。
信心深い民は、これを恐れていいなりになっていましたが、曹操はこれを知り、激怒し、祠を破壊して、青州の役人8割を処分します。青州の人々はこれにより、恐怖からも重税からも解放され、曹操を慕っていたのです。
その曹操が今、兗州の牧として赴任してきている、黄巾賊の大半を占める青州の人民は、曹操の話であれば聞くという心理になっていました。曹操は、ここで、自分が公正で平和な、百姓が安心して暮らせる社会を造ると黄巾賊の首領達と話をつけたのでしょう。
黄巾賊は、ただの賊ではなく、太平道という宗教を信じる人々です。その教義は、万民平等な平和な社会を造るという事でした。曹操が、それを替わって実現してくれるなら反乱を止めようと思ったのです。
ここで黄巾賊は、降伏をしますが、そこに至って曹操に条件を出しています。
曹操に出した条件って何?
それは、
①太平道を信仰する自由を認める事、
②軍団を別の土地の兵と混成しない事、
③曹操が死んだら自分達を自由にする事、
という3点の条件でしたが、曹操はこれを呑みます。
こうして、曹操軍に吸収された黄巾賊は青州兵と命名されます。そして鉄の団結と死をも恐れぬ強固な信仰を持つ最強の兵団として、曹操の為に手柄を立て、魏の建国に大きく貢献するのです。