甘寧興覇(かんねい・こうは)は、生没年不詳の豪傑です。
先祖は、南陽(なんよう)郡に住んでいましたが、
甘寧の何代か前に、ド田舎の巴蜀(はしょく)の地へと移住しました。
甘寧は当初、郡の会計係をしていましたが、退屈な役人暮らしに、
愛想が尽きたのか、仕事を投げ出して家に引っ込みます。
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この記事の目次
甘寧が海賊行為を始めたきっかけ
元々が、豪快で任侠の気風を持つ人だったので、
無頼の青年が甘寧について慕うようになると、彼等を組織して、
私設の部隊を造り上げ、海でも陸でも暴れ回るようになります。
甘寧の部隊は、皆羽飾りで身体を飾り、また鈴をつけていたので、
近隣の住民は、甘寧の部隊が近くにきているのがすぐ分かったそうです。
甘寧は、傍若無人で、道で役人に会うと、それがどれだけ高位でも
自分達を接待するように言いつけて、断ると手下に屋敷を襲わせて
財産を強奪しました。
まさしく怖い者なしの、やりたい放題の海賊王です。
乱暴な甘寧くん、しかし急に大人しくなる
一方で、自分を重んじて褒賞を与える地元の役人に対しては、
義理堅く、自警団を買ってでて、領内で治安を乱す、人間を逮捕、
制裁を加えるという事もしていました。
そのような生活を20年余り続けた後、
甘寧は、思う所あって乱暴をぴたりと辞めて、書物を読むように
なっていったといいます。
その後の甘寧はどうなったの?
さて、菫卓(とうたく)が洛陽を支配すると、
その配下の沈弥(ちんや)という武将が、劉璋(りゅうしょう)が
支配する益州を支配しようとやってきます。
甘寧は「劉璋に乱世を切り抜けられる才覚は無い」と見限り、
沈弥と共に、反乱軍を起こしますが、劉璋軍に敗れてしまい荊州へと逃亡します。
甘寧は、配下として800名の食客を連れて、
荊州の劉表(りゅうひょう)を訪ねて、仕官しますが、
文を重んじて武を軽んじる劉表は、見た目が粗暴な甘寧に
嫌悪感を持ち、これを重くは用いませんでした。
甘寧の方も、劉表を「天下を獲る器ではない」と見て、
その下から離れ、呉の孫権(そんけん)を目指して、南下していきます。
呉の孫権を目指し南下するが・・・
しかし、夏口には、劉表配下の黄祖(こうそ)の軍勢が駐屯していて、
それ以上は、南下できず、止むなく黄祖の部下として仕えていたのです。
黄祖は、劉表の配下だけあり、人物は劉表よりもずっと下でした。
さらに、臆病で猜疑心が強い、黄祖は、甘寧の配下を引き抜こうなどとし
甘寧を弱体化しようとしたばかりではなく、
呉軍を撃退して、黄祖の窮地を救った甘寧に何の恩賞も与えませんでした。
これに愛想が尽きた、甘寧は呉に降り、以後は孫権の配下の武将として、
勇名を轟かせるようになります。
甘寧は孫権の特徴を知っていた
また、甘寧は、ただの猛将ではなく、以前、蜀にいた経験から、
蜀が与しやすい事を知っており、孫権に対して、
「荊州の劉表を討ち、次ぎに益州の劉璋を討ち果たし、
その上で、曹操と対峙して、天下を決する」
という天下二分の計を進言しています。
同様のプランは、周瑜、そして魯粛も持っていて、
孫権に進言していました。
この計略が図に当たると、劉備は滅ぶほかにないので、
まさに赤壁以前から、蜀と呉は一度激突する運命だったのでしょう。
孫権は、甘寧に全幅の信頼を置き、
「曹操には張遼がいるが、私には甘寧がいる」と度々口にしていました。
このように甘寧は単純に乱暴な猛将ではなく、
自らも天下統一のプランを持ち、仕えるべき主君を品定めする
つきぬけた人物だったのです。
本当は最後まで鉄砲玉扱いだった甘寧(kawa註) 2018/11/15追記
甘寧と言うと、何となく若いイメージがありますが、西暦194年に劉璋に対して反旗を翻し敗れる前に、20年程も海賊をしていたようなので
仮に15歳から海賊稼業を始めたとしても、20年では35歳、逆算すると西暦159年頃の生まれではないかと思われます。
だとすると、甘寧は劉備よりも年上になり、215年に56歳で死んだという計算になります。
勇名を馳せた百人の決死隊で40万の曹操軍に奇襲をかけた濡須口の戦いの時は、54歳という事ですね。
当時の50歳オーバーは今で考えると80歳オーバーには匹敵するような年寄ですが、そんな甘寧に僅か百人で奇襲を命じる孫権は、
どこか性格が壊れているのでないなら、明らかに甘寧を鉄砲玉として扱っているとしか思えません。
西暦214年には皖城攻略戦で自ら城壁をよじのぼり魏軍の朱光を捕える大手柄を立てていますが、冷静に考えて下さい。
呂蒙や周瑜が自ら城壁をよじのぼり奇襲を掛けるなんてあり得るでしょうか?
こうして考えると、甘寧はお世辞にも優遇されていたとは言い難く、大手柄の割には昇進も遅く、
孫権にとって都合のよい鉄砲玉で人生を終えたように感じてなりません。
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