氐(てい)族は、自らを古の槃瓠(ばんこ)の末裔と称していました。槃瓠は、中国の帝王に仕えた犬で、手柄を立てて皇帝の娘を嫁にしてそれが、氐族の先祖になったという伝承があるようです。春秋戦国時代の頃には、陝西省から甘粛省の周辺に居住しています。彼らの自称は“盍稚”(がいち)といい、それぞれ王侯がいて、中国から多くの封拝を受けていました。
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氐族とは、どのような民族なの?
氐の種族は一つではなく、青氐・白氐・蚺(ぜん)氐などに分かれています。彼らの氏族トーテムや、服の色などに基づいて部族名にしました。
※トーテムとは植物や動物など、その部族を象徴するアイテム、宗教的に結び付けられている。
氐族には姓があり中国の姓に似ていたようです、彼等は、他の遊牧民とは違い農耕民から奪うだけではなく、織布ができ農業もしながら豚・牛・馬・驢騾(ろら)を畜養するという、半農半牧、時々略奪というような生活を送っていました。
漢の武帝に追われて山間部に逃げる氐族
元々は平地に暮らしていた氐族ですが、ここに漢の武帝が武都郡を置いて入植を開始すると、多くの氐族は、青海湖側の山間部に追いやられます。しかし、氐族には漢語が分かる人間も多くいて、彼等は、平地に残ったと言われています。
馬超について、潼関の戦いに参戦
後漢の末期、氐族には、興国氐王の阿貴(あき)、白項氐王の千万(せんまん)という二大王に率いられた、それぞれ1万以上の部族がいました。これに目をつけた西涼の馬超(ばちょう)は、阿貴と千万を味方につけて西暦211年に曹操(そうそう)に反旗を翻します。
少なくとも10万以上の馬超と韓遂(かんすい)と氐族の連合軍は、曹操軍と激突散々に曹操を苦しめますが、賈詡の離間の計で馬超と韓遂が仲違いし阿貴が曹操軍の猛将、夏候淵(かこうえん)に攻め滅ぼされるに至り、勢いが衰えその部族は、魏に帰順します。千万は、巴蜀に逃れ以後は行方不明になります。
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氐族から英雄、符堅が登場華北を制圧する
しかし、時代が魏から晋、五胡十六国時代に移行すると、氐族は、再び勢いを取り戻し、成漢、前秦、後涼というような中華風の国家を立てていきます。その中でも前秦の符堅(ふけん)は優れた名将で華北を制圧し、南の漢族の国、東晋に五十万という南征軍を派遣します。
ところが、東晋は、決死の覚悟の五万にも満たない兵で抗戦。名宰相、謝安(しゃあん)や将軍、謝玄(しゃげん)の活躍により南征軍は8割が戦死するという大惨敗を喫し、符堅も重傷を負い帰還します。この敗北で前秦に従っていた遊牧民は次々に離反して別々に国を立てていきます。前秦も実力者であった羌族の将軍、姚萇(ちょうよう)により簒奪され、符堅は殺害されました。
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