蜀の老将・黄忠(こうちゅう)と間違う方もいると思いますが、別人です。今回は黄蓋(こうがい)になります。黄蓋(こうがい)と言えば呉の老将で赤壁の戦いで活躍した一人で有名ですね。
彼は、曹操を騙すため周瑜から棒叩きの計を受ける事になり黄蓋が周瑜に対する不満は周囲にも明らかでした。
曹操軍のスパイもすっかりと周瑜と黄蓋の演技に騙され、曹操に誤った報告をしたことにより曹操も信じ、黄蓋の偽りの降伏を受け入れ、そして赤壁の戦いが開戦することになるのです。赤壁の戦い以外でも多くの功績を残している名将は、一体どんな人生を歩んできたのでしょうか。
この記事の目次
黄蓋ってどんな人?
黄蓋(こうがい)、字名は公覆(こうふ)といい、呉の孫堅・孫策・孫権に仕えた老将です。
黄蓋は若い頃に父親が亡くなり乏しい生活を余儀なくされました。普通ならグレたりするところですが、黄蓋は違います。常に志を抱き、働きながら上表文の書き方や兵法の勉強を励み並々ならぬ努力で今の地位を確保したというのも過言ではありません。郡の役人になった黄蓋は後に、孝廉に推挙されました。そして黄蓋の人生を大きく変える孫堅と出逢う事になるのです。
孫堅が挙兵すると黄蓋も賛同
184年、孫堅が義兵を挙げると黄蓋も随従し、荊州南部で山越による反乱を平定。北では反董卓連合軍に参加し董卓を敗走させるなど功績が評価され別部司馬に任命されました。
孫堅が亡くなると息子の孫策・孫権に仕える
191年、孫堅が劉表に討たれると孫策・孫権に仕えて各地で数々の功績を上げていくのです。
呉の悩みの種 山越の存在
長江下流では、山越(さんえつ)という異民族が昔から住んでいました。長年、山越はなかなか呉に服従しようとせず、呉が中原進出の機会を失ってしまったのも山越への対応に忙殺されたのが1つの原因です。
呉は諸葛瑾の息子である諸葛恪(しょかつかく)が台頭するまで山越に悩まされる事になります。山越討伐で孫権からの信頼が厚かった黄蓋なかなか服従しようとしない山越が県に攻めこんできたと孫権の耳に入ると、さっそく山越討伐軍を編成しました。
その中心となる人物は黄蓋でした。黄蓋はここでも山越を服従させ、後に山越が多く住む9つの県にも赴任することになりましたが、黄蓋の人柄によって山越も服従することになったのです。
黄蓋の人柄はどうだったの?
黄蓋の風貌は威厳があり、部下には日頃から優しく接していた為、黄蓋が出兵する戦では兵士たちが率先し命を揮って戦う程、大変人望の厚い人でした。そして強きを抑えて弱気を助ける統治を行っていた事から、どの地も無事に平定されました。また、日頃から漢民族による圧迫を受けていた山越も黄蓋の人柄から信服し平穏に暮らす事が出来たのです。
赤壁後の黄蓋は何をしていたの?
赤壁の戦いでは、第一線に立ち、開戦させた黄蓋ですが、運悪く流れ矢に当たって長江に落ちてしまったのですが、自軍に救出されました。しかし自軍は将軍・黄蓋だと分からなかった為、治療してもらえず放置されてしまいました(笑)
偶然、同僚の韓当が発見し部下に黄蓋を手当をさせるよう命じ、黄蓋はかろうじて助かる事が出来ました。もし韓当に発見されなければそのまま治療もしてもらえず亡くなったでしょう。赤壁の戦い後、武陵蛮が反乱を起こすと武陵太守に任命され鎮圧に当たる事になりました。
武陵蛮 vs 黄蓋兵500人
黄蓋兵が城を守る兵は僅か500人しかおらず、黄蓋は心理戦を使って武陵蛮と戦う事を決意。黄蓋は武陵蛮を城門をわざと開けて敵を半分ほど誘い込み一気に撃退し反乱を鎮圧しました。ここでも黄蓋は首謀者だけを誅殺し、首謀者以外の罪は問いませんでした。
黄蓋が亡くなったのはいつ頃?
黄蓋は反乱の度にその都度、平定をさせ孫権からも厚い信頼を得ていましたが、その後、黄蓋は病没したとされています。黄蓋の死去した年は史実には記されてないが、予想では215年とされています。というのは同時期になくなった孫権の従兄弟・孫瑜(そんゆ)がこの年に死去すると、弟・孫皎が黄蓋・孫瑜の配下を指揮をしたと記されている事から215年に亡くなったのではないか?と言われています。
黄蓋の人生
異民族が数年毎に反乱を起こす度に孫権から討伐要請を受ければ速やかに鎮圧し任務を達成。事務も長期間滞らせることがなかった為、孫権領内の人々は彼の死を大変悲しんだそうです。
『呉書』によると、黄蓋の肖像画を描いて季節ごとにお祭をした人々もいたと記録に残っています。孫堅の代から功績を残し、孫堅の子・孫権からの信頼も非常に厚く、部下にも信頼され、異民族や人々から好かれた黄蓋。呉の中では周瑜や甘寧、陸遜など有能な人物も多いですが老将・黄蓋もストーリーがあって面白いね。
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