三国志の動乱が語られるとき、必ず出るのが「黄天すでに死す」の文言、黄巾の乱です。
この黄巾党は元は太平道(たいへいどう)という道教の教団でした。
後漢に一気に広まった太平道、じゃあ他に何か宗教はなかったの?
と思われるかもしれません。
確かに当時の中国には「他者救済」というような宗教はありませんでした。
初めて行ったのがこの太平道ではないでしょうか。
そこで今回は、後漢末にはどんな教え、宗教があったのかしら?
という点をみていこうとおもいます。
ちなみに拝火教は6世紀、キリスト教は7世紀にならないと伝来しません。考え方くらいは伝わって
いたかもしれませんけどね。
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仏教って何?
紀元前5世紀にインドで興った仏教は、中国には1世紀ごろに伝来したと考えられています。
考古遺物で後漢時代の仏像がみつかったり、明帝や楚王英にまつわる仏教説話が伝わったり、
笮融が揚州に大寺院を建立している事が理由です。
インド北部のクシャナ朝から大月氏を介し、シルクロード経由で伝わりました。
明帝の時代には白馬寺という寺院が洛陽郊外に建立されたと伝わります。
ちなみに現在残る白馬寺は明~清代の建物です。
当初は大乗仏教と上座部仏教の両方が伝わりました。
大乗仏教とは、生きとし生けるもの全ての苦しみを除こうとした仏陀の精神に習って善い行いを積み、
これにより仏陀のように道を成せる事を目指した教えです。
相対するとされる上座部仏教(昔は小乗仏教と呼んでいましたね)はこの頃、仏陀の教え、
戒律を守る生活を頑なに行ったり、教え自体を細かく研究するという姿勢でした。
これに比べ一般の人々に多く受け入れられた大乗仏教は、ユーラシア大陸の東部に広まりました。
中国に落ち着いたのもこの大乗仏教で、3世紀の晋の時代になると教典も様々伝わりました。
伝来当時、後漢には古来からの儒教と道教、それに中華思想がありました。
このため国内での仏教の受容にはとても時間がかかったそうです。
伝道師たちは黄帝と仏陀を一緒に祀るという、儒教・道教になぞらえた形で布教を進めました。
儒教って何?
紀元前5世紀前後に魯国の孔丘先生が唱えた、東アジア最強の道徳思想です。
時は春秋時代、列強による実力主義により、周を中心とした身分秩序は崩壊しつつありました。
魯国は周の武王の弟である周公旦が封じられた国で、
孔子の頃にも500年前の古い礼制(服装や言行等の行動規範)が残っていました。
孔子はこの礼こそ最上のもの、周公旦こそ聖人であると崇め、
この魯国に残る礼制を体系化し後世に残そうとしました。
これが儒教です。ざっくり言うと、仁・義・礼・智・信という徳目を心がける事
により、父子、君臣、長幼等の五倫を大切に生活する教えです。
孔子が礼制に馴染み深かったのは、母親が顔氏の巫女で幼い頃から
葬送儀礼に触れる機会が多かったからと言われています。
苦学して礼学を修め、20代の頃に魯に仕官しています。
ここから結構政治に関わる孔丘先生。
しかし56歳の頃から亡命生活を送るようになり、
魯に帰国したのは69歳の時でした。その後74歳で生涯を終えます。
この間に抱えた弟子は孔子十哲をはじめ3000人にも及んだと伝わり、
彼らが孔子の思想を奉じて、孔丘先生ファンクラ…じゃなかった、教団のような組織を作り、
教えを論語に纏めます。彼らは儒家と呼ばれて、この時代に現れた諸子百家の一端を担います。
秦の時代には国を批判したとして焚書坑儒などの弾圧を受けます
(でも秦に仕えた儒家も居たんですよ)が、
前漢では五経博士の設置により儒教がゆっくりと復権し、儒者の重臣なども出るようになります。
後漢末には儒教は大切な道徳として、一般庶民の間にも広がっています。
管理登用の際も儒教的な徳目が重視されました。
逆に何かしらの理由でこれら徳目に瑕がついていると、
あまり推挙してもらえない…という事態も起きていました。
そこに目をつけたのが曹操(そうそう)です。
彼は「性格的に問題あっても、得意なものがあれば全然OK!」と
コレクターじみた勢いで人材集めをします。
これが彼の大きな力となるのですが、この頃形骸化していた儒教思想よりも実利を取ったのですね。
道教って何?
こちらも中国を代表する思想哲学、道教です。ただの思想だけでなく、
土着の信仰や神仙思想、宇宙観までひっくるめ、儒教とも共存していこうという姿勢。
仏教が伝わるとこの教えにも影響を受けていきます。
その始まりははっきり言って不明です。
戦国時代に黄老思想という、黄帝から始まり老子が大成したという道家の思想があり、
老荘思想はこの後に広まったと言われています。
老子は姓を李さんといい孔子と同世代の人物で、周の役人でした。
道徳(礼制と似てます)を修めましたが名が広まる事を良しとせず、
尹喜という人物に老子道徳経を残し行方不明になりました。
荘子は荘周といい、特に無為自然を尊び人為を嫌い、
俗世間を離れて過ごす…はい、隠者や仙人ですね。これを理想としました。
戦国時代には発生したと考えられていますが、黄老、老荘の思想が流行るのは漢に入ってからです。
宗教教団として現れたのは、何と2世紀の太平道です。
そんなにアヤシイ教えを広めた訳ではありませんでしたが、
不安定な時代に中原でたくさんの信者を集めた事により朝廷に目をつけられ、
軍隊のような組織を作ったために弾圧対象となります。
五斗米道って何?
これが黄巾の乱の始まりで、教団自体は壊滅しますが、黄巾賊による世情不安はしばらく続きました。
南方の蜀ではこれまた道教母体の五斗米道がおこりますが、こちらはしっかりした教団組織を作り、
時の政権(劉焉(りゅうえん)とかですね)と上手にお付き合いしたので、
三代目教祖の張魯の頃には無視できない一大勢力となっていました。
曹操は張魯に好印象を持っており漢中攻めに際し降伏した時も家族ともども厚遇したといいます。
信徒も保護され北方に新たに暮らす土地を与えられたため、教えは大きく広まりました。
この事がこの後の道教に大きな影響を与えています。
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