本家キングダムでは、毐国(あいこく)を独自に建国して、秦王政を亡きモノにし愛人である太后の産んだ子供を王位に就けようとして滅ぼされた嫪毐(ろうあい)。彼は、どのような経緯で栄光と破滅の道を歩んだのでしょうか?
男のウェポン一本で天下を掴もうとした男の人生を追います。
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この記事の目次
よく分からない嫪毐の半生
嫪毐は紀元前238年に殺された事は分かりますが、産まれた年から、呂不偉(りょふい)に見出されるまでの事は分かっていません。ただ、自身の武器が巨大であるという事が世間に知れ渡っている事を考えるとカタギの仕事をしていた人ではなく食客のように各地を渡り歩いていた任侠か旅芸人のような存在だったのかも知れません。
もし、そうなら嫪毐が宴会で自身のモノを披露して笑いを取るというような事もしたかも知れず、呂不偉(りょふい)に名前が知れたという推測は立てやすいのです。
丞相、呂不偉、秦王政の母、太后と不義密通を犯す
呂不偉は、今や秦王政の母として国母となっている太后と不倫の関係でした。元々、太后は趙妃といい呂不偉の元にいた芸妓の1人だったのです。それを秦の王子であった子楚(しそ)の願いで譲ったのが事の始まりでした。
この子楚は、呂不偉の売り込みにより、二十名以上もいた王子を押しのけて、秦の荘襄王(そうじょうおう)として即位しますが、たった三年で病死しました。そこで、功労のあった呂不偉も引き立てを受けて丞相になります。
夫である秦王を失った太后は生来、性欲の強い女性であったと言われ、常に激しい欲求不満を抱えていました。そこで、秦の丞相として絶大な権力を奮う元恋人の呂不偉に近づいてきたのです。呂不偉はこれまでのいきさつで、これを断れず太后と関係します。しかし、30代の女盛りの太后と50を過ぎた呂不偉では釣り合わず呂不偉は太后を満足させるのが難しくなっていました。
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商人、呂不偉 嫪毐のウェポンを最大限に売り込む
身の破滅を予感した呂不偉が、自分の身代りとして後宮に送り込もうと考えたのが嫪毐でした。恐らく呂不偉は嫪毐を自分がコントロールできる程度の人物だと値踏みしたという事でしょう。そこで呂不偉は、嫪毐の男のウェポンの噂が太后の耳に入るように最高のPRになる仕掛けを思いつきます。
桐製の車輪に嫪毐のウェポンを嵌めこみクルクル回す
呂不偉は、まず嫪毐を自分の食客として雇い入れて、大きな宴会を催します。そして、何百名という宴会の出席者の酔いが回った頃に、嫪毐を呼び出して下半身を露出させ、そこに桐で造った馬車の車輪をパイルダ―オンさせ卑猥な歌詞を歌いながらクルクルと車輪を回しました。一見すると、ただのゲスな下ネタですが、ここには元商人の呂不偉の商品を売り込む叡智が隠されています。
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