「尚書(しょうしょ)」という肩書きを聞いたことはおありでしょうか。中国史好きなら誰もが知っている基本中の基本単語ですが、ひとまずざっくり説明します。
この記事の目次
「尚書」ってなに?
尚書というのは秦代~元代まで朝廷に存在した役職・部署の名前です。その地位や役割は時代によって少しずつ異なるものの、前漢代~三国時代においては主に上奏文(臣下から皇帝へ上げられる伺い書・決裁書)などの公文書を管轄する皇帝付きの秘書官・秘書機関でした。
最初はパシリ扱いの身分の低い役職だった
はじめは単に文書の伝達や取り次ぎを行うだけの、いわゆるパシリ的な身分の低い役職でしたが、政治の場で皇帝のそばに侍り、やがて伝達だけでなく内容のチェックや起草(文書の起案)など重要な事務を取り扱うようになったためか、だんだんと実権を得て高位の官職になります。
三国志で有名な尚書令と言えば諸葛孔明と荀彧
後漢~三国時代では、尚書台や尚書省という部署が置かれ、長官である尚書令、次官である尚書僕射、その他ヒラの事務補佐である尚書郎、そして時により尚書令の上に録尚書事という取りまとめ役がいました。ちなみに三国志で有名な尚書令といえば、曹操の右腕であった荀彧、録尚書事には劉備のブレーンであった諸葛孔明がいます。これ以上の詳しいことは学術書やWikipediaに譲るとして、この尚書、つまり皇帝秘書は、お分かりのとおり男性の役人のお仕事です。
歴史書に女尚書の役職を発見
ところが、歴史書をためつすがめつ見ていると、ある瞬間にふと「女尚書」の3文字が飛び込んでくることがあります。
「女」尚書? 気になります。
まさか当時にして実はすでにして女性の高級官僚が登場していたのでしょうか?
そんなどこかの中華ファンタジー小説的なことがあったとは、古代中国、進んでる!
と言いところなのですが、残念ながら女尚書はいわゆる尚書と同一のポジションではなく、後宮女官のお役目の一つなのです。
女尚書はいつ存在してたの?
いつからあったのかは定かではありませんが、少なくとも歴史書の記録からすると、後漢~南北朝時代に存在していたようです。また、後漢時代にはお妃様と一緒にトラブルメーカーになったこともあり(『後漢書』陳蕃伝、竇武伝)、それなりの権力を握っていたと思われます。
女尚書はお飾りではなく実務を負っていた
しかし女尚書はお飾りというわけではなく、ちゃんと実務も負っていました。たとえば三国時代、魏の明帝は、後宮内から教養ある女性を選び、更にその中でも信頼のおける女性を6人を選りすぐって女尚書とし、文書決裁など一定の公務を任せました(『三国志』魏書明帝紀)。
またある時には、乱暴者のボンクラ皇子の病気見舞いに遣わされて剣で斬りかかられたり、危ない目に遭うこともありました(『晋書』石季龍載記)
漢代~三国時代の彼女たちの装いは、「貂蝉」という貂のしっぽと蝉の文様の装飾を身につけ、「璽」という公印を腰から下げていたといい(『晋書』礼志)、いずれも男性官吏と共通しています。
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三国志ライター楽凡の独り言
ちなみにこの身分、平安時代の尚侍によく似ています。字面もそうですが、尚侍もまた天皇のそばに侍り、下から天皇へ上がってくる公文書の取り次ぎをしたり、天皇の命令を下々へ伝達する役目を負いました。昔の身分ある女性は、内に籠って、公の場には一切足を踏み入れなかったように思われがちですが、意外にもこうして政治の一端を任されたりしていたのですね。
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