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陳羣の性格に曹丕も気に入る
この清廉潔白な性格である陳羣は太子であった曹丕(そうひ)の側近になります。曹丕は陳羣が側近に加わった事を非常に喜び、配下の者に「私には顔回が側近についてくれたおかげで、私の配下達は日が経つごとに素晴らしい人材に育っていく。」と陳羣を褒め称えます。顔回は孔子の弟子の中で非常に優れていた人物です。曹丕は司馬懿・呉質・陳羣・朱鑠を厚く用いて四友にし、この四人が曹丕の側近として活躍していきます。
「九品官人法」を制定
魏王曹操が亡くなり、曹丕が跡を継ぎます。曹丕が皇帝になり、陳羣は曹丕の側近として法律の制定を行っていきます。陳羣が制定した数々の法律の中で、一番優れていた法律は「九品官人法」です。
九品官人法って何?ざっくりと紹介
「九品官人法」とは人材の採用方法の法律です。この当時の採用方法は郷挙里選(村などで村人達が国に推薦する人材採用法)という方法を採用しておりました。この方法で採用した人物の才能に応じて一~九品までの役職に配置するという画期的な法です。五品から上に採用されることは少なく、たいがいは六品~九品の間で役職が割り振られるシステムが普通となっています。この「九品官人法」を制定した功により、爵位が与えられ、曹丕からの信頼が高くなります。
曹氏三代に仕え、臆することなく直言し続けた忠臣
陳羣と曹丕は互いに信頼し、これから魏国を伸ばしていこうとしている最中、曹丕は亡くなってしまいます。陳羣は、曹丕から曹叡(そうえい)を支えるよう頼まれていました。そのため初仕事をする皇帝曹叡に「主君に追従し、家臣同士で争いを生じさせるような人間には気を付けてください」と忠告を行っています。
大将軍・曹真が蜀討伐を提案
ある日大将軍・曹真が蜀を征伐すべきと会議で発言すると、陳羣は「今、蜀漢征伐を行っても何の利益もありません」と反対します。しかし曹真は陳羣の反対意見に耳を貸さず、出陣します。蜀攻略は陳羣が指摘した通りなんの成果も出さず失敗に終わります。曹真の蜀漢征伐が失敗した後、曹叡は急に、宮殿増設工事を行います。
陳羣は臆することなく直言を続ける
陳羣は「蜀漢征伐が失敗に終わり、国力が低下している中、宮殿の造営をすることは害しかありません。今すぐおやめなさい」と忠告しますが、曹叡は造営する規模を小さくしただけで、工事自体はやめませんでした。陳羣は最後まで国を支える事に尽力し、亡くなります。曹氏三代に仕え、まじめな性格で必要のない事業などは誰であろうと臆する事無く、正面から反対する忠臣でした。出しゃばらず、控えめな性格であったため魏の群臣からも人気が高く、頼りにされていたそうです。
三国志ライター黒田廉の独り言
陳羣が制定した「九品官人法」はこの後も生き残ります。この制度は「科挙」が採用される隋の時代まで使用された法律です。陳羣は生真面目で、しっかりと自分の意見を述べる忠臣でしたが、武官みたいな華やかさはありませんでした。しかし陳羣の名と「九品官人法」はしっかりと歴史の中に刻まれており、後世に残る逸材であったと思います。今回はここまで、それではまたの三国志話会でお会いしましょう!