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車騎将軍であった夏侯覇が亡くなり廖化は昇進
車騎将軍であった夏侯覇(かこうは)が亡くなった後、彼は左車騎将軍の位に昇進します。ついでに蜀軍の重臣・張翼(ちょうよく)が右車騎将軍に任命されております。廖化は北伐を連年行い、実績を挙げることができず、蜀の国力が疲弊していることに悩んでおりました。彼が悩んでいる最中、姜維が再び北伐を行うべく出陣します。
廖化は共に出陣しますが、「姜維の知略は、敵に勝っているわけでもなく、あいつの力量も敵に劣っている。この状況で、魏に何度も攻撃しても勝てるわけではない。」と姜維を批判する言葉を言ったそうです。
しかし、姜維にこの言葉は届かず北伐を行います。廖化が批判した通り、何の実績を挙げないまま、敗北して蜀に帰ってきています。
剣閣の戦いと蜀の滅亡
姜維の北伐で国力が衰退する中、ついに魏軍が蜀に攻め込んでくるのです。魏軍の大将は鄧艾(とうがい)と鍾会(しょうかい)です。廖化は姜維と共に、陽平関で魏軍を迎撃します。魏の大軍の前に抗いきれず、蜀防衛戦の砦・剣閣へ退却します。廖化は姜維や張翼達と共に剣閣に立て篭り、この地にやってきた鄧艾と鍾会の軍勢を見事に追い払います。
鄧艾は別働隊を編成し、迂回路を進軍
鄧艾は、この地を陥落させるのは難しいと判断し、別働隊を編成し、迂回路を進軍します。廖化達は、幾度も攻め寄せてくる鍾会軍と懸命に戦い続け、何度も打ち払います。ですが別働隊を率いていた鄧艾軍が、蜀の本拠地成都を陥落させ、蜀の皇帝・劉禅が降伏してしますのです。
廖化の最期
廖化は必死に剣閣を守っていましたが、劉禅(りゅうぜん)が降伏したことを聞き、彼や姜維・張翼は降伏します。廖化は降伏した後、魏の首都・洛陽に移住することになりましたが、洛陽への移動中に亡くなってしまいます。蜀漢のために戦い続けた彼の年齢は不明ですが、大体70歳前後とされております。
三国志ライター黒田廉の独り言
廖化は、関羽や張飛、馬超、趙雲(ちょううん)みたいに華々しい活躍をしている一流の武将じゃありません。どちらかと言えば、地味であまり目立っていない武将です。蜀の後期は、建国した当初の様に人材が豊富ではありませんでした。軍略に明るい武将はほとんどおらず、両手で数えられる程度の人材しかいない中で、彼のような手堅い戦を行う人材は貴重な存在と言えるものであったと思います。今回のお話はこれでおしまいです。
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