前回のお話は、光武帝・劉秀(りゅうしゅう)の青年期から、
100万の軍勢を打ち破った昆陽の戦いをお話ししました。
今回は河北の転戦と劉秀が皇帝に至るまでのお話をご紹介していきたいと思います。
前回記事:後漢の始祖・光武帝劉秀(りゅうしゅう)ってどんな人?青年期は貧しいが性根の優しい人物Part.1
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この記事の目次
軟禁状態から解放された劉秀
劉秀は兄劉縯が殺された後、更始帝と側近たちから危険視され、軟禁されておりました。
ですが軟禁状態は、長くは続きませんでした。
更始帝は新の首都・洛陽と長安を陥落させ「新」を滅亡させ、首都を洛陽と長安に定めます。
更始帝は首都を定めた後、河北を平定する人材選びを行います。
河北平定の適任者がいないため劉秀が抜擢
更始帝が河北を平定する適任者を探していると聞いた家臣が
「昆陽の戦いで活躍した劉秀を用いればいいのでは。」と進言します。
更始帝は劉秀を危険な存在とみなしていましたが、
河北平定の適任者がいないため彼を用いる事にしました。
劉秀は河北平定の任務を与えられた事で、
更始帝と側近たちからの監視の目を逃れる事になります。
しかし、この河北平定が、劉秀にとってつらい苦難の始まりだと、
その時の彼は気づくことはありませんでした。
河北での苦難
劉秀はわずかな軍勢と側近らを従えて河北へと向かいます。
劉秀は春秋戦国時代・趙の都であった邯鄲を過ぎた頃、
邯鄲の豪族・王郎が、漢の成帝の子であると自称して、挙兵します。
王郎は河北全域に劉秀を捕えるよう指名手配し
「捕縛したものには莫大な恩賞を与える」と各地の都市に劉秀を捕縛するよう呼びかけます。
洞窟に暮らす劉秀
劉秀はそのため、各地の都市に入る事が出来ず、洞窟で暮らすことになります。
劉秀が邯鄲を過ぎたころ季節は冬でした。河北の冬は想像を絶するほど寒く、
野外で暮らすことは死を意味するほど厳しい状況でありました。
劉秀の側近である鄧禹が森から薪を集めて火をおこし、
また馮異は食物(豆や麦飯)などを村から買ってきて、
その日、その日の飢えと寒さをしのぐ劉秀一行でした。
このような状態が数か月続いたある日、劉秀の元に吉報がもたらされます。
王郎の支配に反発した信都郡の太守である任光が劉秀の味方をしたいと名乗りを上げます。
劉秀はこの事を聞き、急いで信都郡へと向かいます。
劉秀は側近を連れて信都に着くと、太守である任光が城門を開けて彼らを待ち受けていました。
こうして彼らの苦難に満ちた河北の旅は終わり、ここから劉秀の快進撃が始まります。
河北平定へ
劉秀は信都を手に入れた後、王郎から離反した和成郡の太守・邳彤が配下に加わります。
劉秀は二つの土地を味方に着け、この勢いをもって諸郡の攻略に向かいます。
諸郡攻略と同時に王郎の元に身を寄せていた、皇族である劉楊(りゅうよう)の説得工作を開始します。
諸郡攻略を行っていた劉秀の元に続々と吉報が訪れます。
一つ目は説得工作をしていた劉楊が王郎の元を離れ、10万の軍勢を率いて劉秀の元へ馳せ参じます。
彼は劉秀に協力する代わりに、姪である郭聖通を正妻として迎え入れるよう条件を出します。
しかし劉秀は、正室に陰麗華を迎え入れる約束をしていました。
彼はそのためかなり悩みますが、河北を統一するため、致し方なく劉楊の条件を受け入れ、
郭聖通を正妻として迎え入れ、劉楊とその軍勢10万を味方に着けます。
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