この記事の目次
二つの郡が劉秀に味方する
二つ目は河北最北部である魚陽郡と上谷郡が味方になります。
この二つの郡は、当時最強と呼ばれていた精鋭騎馬隊を率いて劉秀に味方します。
二つの吉報を得た劉秀は、ついに王郎の居城である邯鄲に向けて軍勢を向けます。
劉秀は迎撃に出てきた王郎軍を打ち破り、邯鄲を包囲し猛攻を仕掛けます。
包囲する事数か月、ようやく邯鄲を陥落させます。王郎は邯鄲陥落時に、
逃走を図りますが、劉秀の配下に捕えられ、処刑されます。
劉秀は苦難を乗り越えやっと河北の半分を手に入れました。
河北最大の地方勢力「銅馬軍」討伐を決行
その後、河北最大の地方勢力「銅馬軍」討伐をすべく、劉秀自ら軍勢を率いて出陣します。
劉秀は銅馬軍の軍勢を数回にわたって打ち破り降伏させました。
彼は銅馬軍の兵士を安心させるため、鎧をつけずに巡察します。
この光景をみた銅馬軍の兵士たちは、「新たな主は誠心誠意をもって、我らに接してくれている。
我らは命を懸けて新しい主をお助けしようじゃないか」と語り合ったそうです。
劉秀はこうして河北全土を統一し、地方の実力者としてのし上がる事が出来ました。
光武帝・劉秀の誕生と天下統一
更始帝は、劉秀が河北を統一した事に危機感を覚え、彼を王に任命して、
首都・長安に呼び寄せようと使者を出します。
劉秀は、更始帝の使者を迎えますが、
河北の民心や残存勢力の掃討が終わっていないことを理由に更始帝からの命令を断り、
自らの道を歩んでいくことを決めました。
劉秀が自立した事を知った家臣達は「河北は平定されました。
しかし天下は未だ定まっていません。
そのため皇帝となって、全国の反乱勢力を平定して、民を安心させるべきです」と進言します。
劉秀は家臣の進言を聞きますが即座に断ります。
家臣たちは再び劉秀に進言しますがこの時も断られます。
その後も家臣たちは入れ替わりに進言を行い、なんと四回も進言します。
劉秀は四回も家臣たちに説得された事で根負けし、家臣たちの言葉を受け入れて、皇帝となります。
赤眉軍に殺されてしまう更始帝
劉秀は以後光武帝と呼ばれる事になります。
劉秀が皇帝の位に就いた時、更始帝の政府は大変なことになっていました。
西から来た賊軍「赤眉」に更始帝政府の首都・長安を攻略されてしまいました。
更始帝は降伏したのですが、赤眉軍に殺されてしまいます。
赤眉軍はその後、長安や近郊の都市で略奪の限りを尽くしていました。
劉秀は河北での苦難を共にした家臣の鄧禹(とうう)と
馮異(ふうい)に赤眉軍を討伐すべしと命令を出します。
鄧禹と馮異は赤眉軍に攻撃を仕掛けますが、敗北してしまいます。
敗れた二人は、軍勢を立て直して、再度赤眉軍に攻撃を仕掛け、
勝利を収め、西へ向かっていた赤眉軍の退路を遮断します。
劉秀は東で赤眉軍を待ち受けておりましたが、
赤眉軍は兵糧が無くなったことを理由に劉秀へ降伏を申しこみます。
劉秀は赤眉軍の降伏を受け入れる
劉秀は赤眉軍の降伏を快く受け入れ、彼らの軍勢を配下に収めます。
劉秀は赤眉軍を討伐し終えた後、首都を洛陽に定めます。
その後洛陽から東にある反乱軍の巣窟と言われていた山東を攻略して民心を落ち着かせ、
隴西(洛陽の西にある地方)の独立勢力であった隗囂・隗純親子を打ち破り、降伏させます。
最後の独立勢力であった蜀の公孫述を滅亡させ、ここに天下統一を果たし、漢の王朝を復興させます。
光武帝劉秀が復興させた漢帝国は後に「後漢」と呼ばれ、
三国志の曹丕(そうひ)に皇帝の位を譲った後漢皇帝・献帝(けんてい)の
時代まで続くことになるのです。
三国志ライター黒田廉の独り言
劉秀は皇帝の位に就いた時、なんと30歳前半であったそうです。
30歳前半で諸将を従え、各地の賊軍や独立勢力と戦うなど私には到底できません。
意外なのはこんなにすごい人物なのに、意外と小説や漫画で取り上げられていないのです。
日本人にはあんまり受け入れられないんですかね。
話がそれました。
次回は天下を握った光武帝・劉秀が行った政策や逸話を取り上げていきたいと思います。
今回はこれでおしまいにゃ。
次回もまた初めての三国志でお会いしましょう。それじゃまたにゃ~♪
次回記事:【リアルチート】光武帝・劉秀(りゅうしゅう)ってどんな人?優れた政策と逸話 Part.3
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