この記事の目次
貨幣制度を一新
さらに王莽が貨幣制度をぐちゃぐちゃにしたため、悪い貨幣が流通しておりました。
この貨幣を回収し、新たに五銖銭を製造し、貨幣制度を一新させました。
他にも軍の制度を最小限にすることで、財政の圧迫を減少させたり、
儒教を国教に定めたりと様々な施策を打ち出していきます。
こうして劉秀は、後漢王朝の基盤を作り、安定した政権を確立する事に成功します。
劉秀はどのような人物であったのか
劉秀は様々な政策を打ち出してきた人物ですが、
いったい彼はどのような人物であるのかを明かしていきたいと思います。
彼は最初に紹介した通り、村の中でまじめな青年と思われていました。
劉秀は天下を統一し、生まれ故郷に凱旋した際に、
一族や周辺の村の人々を呼んで宴会を開きます。
この時に村のおばさんが「文叔(劉秀のあざな)は若いとき、
慎重な性格で人とあんまり交わることがなく、
まじめだけが取り柄の子だったのに、今や立派な皇帝になって」と言われたそうです。
劉秀は笑っておばちゃんの話を聞いていたそうです。
また彼は狩りが好きで、ちょくちょく庶民の服に着替えて遠出をし、
夜中に帰ってくることが多かったそうです。
家臣は夜中に帰ってくる劉秀を何度か注意したそうです。
しかし劉秀は家臣の意見を聞かずに夜中に帰ってくることを繰り返していたら、
家臣に城門を閉められ、中に入れてもらえなかったそうです。
かなり残念な部分を持っていた劉秀ですが、昆陽の戦いや河北統一戦などでは、
常に戦場の最前線に立ち、剣や戟を使って戦っていたそうです。
皇帝になっても騎兵を率いて戦った
皇帝になった後も反乱を起こした豪族などの討伐戦では騎兵を率いて戦っていました。
彼は戦場の一番危険な最前線で戦っていたのにも関わらず戦いが嫌いでした。
ある日、劉秀の息子(後漢二代目皇帝)が戦いの事を訪ねてきても
「汝には関係ない話である」と
戦について話さなかったそうです。
劉秀は平和な世の中を作っていく人物達には、戦の事を知る必要がないと思っていたので、
戦にまつわる話をしなかったのかもしれませんね。
三国志ライター黒田廉の独り言
光武帝・劉秀のお話を三回に分けてお話させて頂きました。
後漢王朝を作り上げた劉秀が居なければ、三国志の時代はやってきませんでした。
そう考えるとはじめての三国志の中で記事を書いている私は
劉秀に感謝しなくてはならないと思い、今回書かせていただきました。
長々と書き連ねてきましたが、読んでいただいた読者の方本当にありがとうございました。
今回はこれでおしまいにゃ。
次回もまたはじめての三国志でお会いしましょう。
それじゃまたにゃ~♪
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