日本の世界史教科書では、長年、中国最古の王朝は殷だと教えられてきました。
しかし、近年、発見された、新しい遺跡や年代測定法により、殷を遡る、
夏(か)王朝の存在が、現実味を帯びていると言われます。
では、夏王朝は、本当にあったのでしょうか?
それを検証してみましょう。
この記事の目次
ところで夏王朝って何?美味しいの?
(夏の領域 写真出典元:wikipedia)
では、そもそも夏王朝とは、一体どんな王朝だったのでしょうか?
史記夏本紀の記述によると夏は、黄河の治水を成し遂げた、聖人禹(う)が、
舜(しゅん)帝から帝位を禅譲(ぜんじょう:ゆずりうける事)され
開いたとされています。
王朝の期間は紀元前2070年~紀元前1600年頃までと、
殷と並ぶ、およそ500年という長期政権ですが、そうは言っても、
夏王朝の事績の殆どは伝わっておらず、17代も帝がいる割には
在位期間も、諡号(しごう:死後に与えられる名前)も不詳という人物が多く
また、王朝末期に暴君が出て、諸侯の心が離れ、
新しい有徳者に滅ぼされるという筋立てが殷王朝の末期に
極めて似ている事から後世の人々が、殷周革命を
模倣して造った創作であると長い間、信じられてきました。
1959年、二里頭(にりとう)遺跡が発掘される
(后母戊鼎 写真出典元:wikipedia)
しかし、殷王朝は成立当初から、高度な青銅器技術や、甲骨文字を持つなど
ゼロから出発したとは思えない高い文明を有していました。
この事から、殷が模範とした前王朝は存在すると考えられていたのです。
1959年、、中華人民共和国河南(かなん)省偃師(えんし)市の
二里頭村で遺跡が発見されました。
それは、かなり大規模な都市の遺跡であり、紀元前1800年~
1500年頃のモノと推定されたのです。
その時代とは、まさに夏王朝の中期から晩年にあたる時期で、
幻の夏王朝の都ではないか?と考えられました。
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二里頭遺跡からは、何が出土しているのか?
(二里頭遺跡1号宮殿の基壇図 出典元:wikipedia)
二里頭遺跡は、第1期から第4期までに分類できます。
1期と2期の工房からは、石器や陶器を製造する工房が発見されました。
そして、3期と4期のエリアからは、青銅器の工房、
そして1960年には、大規模な宮殿跡が発掘されています。
宮殿跡は、土を深く掘り、その後、土や石を交互に積み重ねて
固める版築(はんちく)という方法で造られた基壇(きだん)跡として発見されました。
この版築を用いて基礎を固め基壇を造る建築技術は、後の殷(いん)、
周、秦、漢から先に至るまでの宮殿建築の基礎になります。
二里頭遺跡で、現在確認されている宮殿は2つで、
1つは南北100メートル、東西108メートルで東南の一角が張り出した、
ほぼ正方形、あと1つは、東西78メートル、南北53メートルと小型です。
宮殿の北側に位置する主殿の跡は長方形で長さ35m、
幅25mある大きなものでした。
これを宮殿とするならば、ここには王が住んでいて、
周辺には家臣が住み、王朝が存在できた可能性もあります。
人口2万人、十字路も走っていた二里頭遺跡
(1号宮殿の復元図 出典元:wikipedia)
また、二里頭遺跡の規模は、推定で最盛期に2万人という
人口が定住していたという事が分かってきています。
この人口は4000年前の世界では大都市と言ってよく、
人口規模から考えると、ここに国家があっても不思議はありません。
さらに、遺跡には、井の字型に東西南北に道路が走り、
小さいながら、馬車が走っていたという事も分かりました。
これは、碁盤目のような街路を造る、殷や周以降の
中国の都市設計に、よく似ています。
それに遺跡周辺からは、五穀、粟、キビ、小麦、大豆、水稲の種が
発見され、二里頭遺跡が、気候変動に関係なく、
長期間、人間が定住して住む事が出来た事も確認されています。
二里頭遺跡では、すでに分業が発生していて、
都市国家として、完成されていた初期の王朝であるという
考え方も存在しているのです。
二里頭遺跡は、夏から殷に奪われた可能性も・・
二里頭遺跡は、発掘により年代順に4期に別れると書きましたが、
これを、時期により支配者が変わった為と指摘する学者もいます。
3期、4期の地層から出土する、宮殿跡や青銅器の工房は、
夏を滅ぼした殷の文明であるという考えがそれで、
1期、2期は夏王朝、3期、4期は殷王朝で支配者が変わり、
それが出土物の違いとして出てきているというのです。
もし、これが正しければ、
暴虐な夏(か)の桀(けつ)王を殷(いん)の湯(とう)王が滅ぼした
という夏殷革命は、この二里頭遺跡で起きたのかも知れません。
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