戦国BASARAなどでは、真っ赤な鎧を身にまとう長身イケメン武将として描かれ女性人気も高い、真田幸村こと、本名、真田信繁(さなだのぶしげ)。2016年のNHK大河ドラマの主人公であり、堺雅人が演じる事になった、真田信繁、実は、不細工でチビだった事をご存じですか?
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この記事の目次
信繁の顔形を伝える、文書、長沢聞書(ながさわぶんしょ)
日本一の兵、真田十勇士として、あまりにも有名な真田信繁ですが、その名前は、40歳を過ぎるまで殆ど無名でした。むしろ、生前は、兄の真田信之や父、真田昌幸(まさゆき)の名前に隠れて、とても無名な人物だったのです。そして、その顔相は、大阪の陣で共に戦った後藤基次(もとつぐ)の家臣の、長沢九郎兵衛が「長沢聞書」に書き残しています。
真田左衛門佐は四十四、五にも見え申し候。ひたひ口(額口)に二、三寸の疵あとこれあり、小兵なる人にて候
長沢九郎兵衛の見た目での真田信繁は、44から45歳に見えたようです。当時の信繁は1570年誕生説を取ると45歳で年相応の印象で、額に6~9センチの刀傷があり、しかも小兵つまりチビだったと書いています。
チビと言えば、三国志の曹操(そうそう)もそうですが、やはり、ちっさい人には、有能な人が多いのでしょうか?
信繁が不細工になった理由、九度山での幽閉生活
信繁が不細工になったのは、色々な理由があります。関ヶ原の戦いで、西軍について、徳川家康(とくがわいえやす)と息子の徳川秀忠(ひでただ)を敵に回して活躍した信繁と父、昌幸は、戦後、勝利した家康に処刑されそうになります。家康も天下を取る前に、昌幸に敗北を喫した事があり、親子二代で、真田に敗戦した事は、家康にとってトラウマでした。そこで、西軍が敗北した事を幸いに親子共々殺そうとするのですが、ここで、東軍についた信繁の兄、信之(のぶゆき)が必死で助命を嘆願します。
信之「私の恩賞は要りません、ですから、弟と父の命だけは助けて下さい」
家康も秀忠も、弟の方は兎も角、昌幸には煮え湯を飲まされています。なんとしても、首を縦に振ろうとしません。しかし、ここで家康の重臣の本多忠勝(ただかつ)までが信之に同調して助命を願うのです。忠勝の娘は、信之の妻で、信之は義理の息子にあたります。
忠勝「殺すまでもなく、島流しにして死ぬまで置いておいては如何でしょう?」
重臣、忠勝まで口添えしては、流石に家康も意地を通せず、ついに、昌幸と信繁を助命し、紀州の九度山(くどやま)に流刑とします。
命は助かったが貧乏生活で信繁は急激に老けこむ
助命されたとはいえ、九度山に幽閉された、昌幸と信繁の生活は厳しいものでした。領地を失い、収入がない二人は僅かな仕送りを元に生活をやり繰りします。外出の自由はありましたが、執拗な監視があり、力を蓄える所ではありません。経済的に困窮した昌幸は、仕送りを催促する事も度々だったようです。不自由な厳しい生活の中で父、昌幸は急速に健康を損ね、徳川への復讐も叶わず1611年に64歳で死去しました。信繁も、不自由な生活で歯も抜け、髪も白髪になったと、手紙で書いています。
信繁、老け顔になりつつも、兵書を読み、力を蓄える
ですが、信繁は窮乏生活の中でも、兵法書を読み、寺を訪ねて老僧と語り、囲碁を打ったり双六をしていたと言います。当時の寺は、宿泊所の機能もありますから、尋ねてきた諸国の人と会話して僧侶は諸国の事情に詳しいケースがありました。恐らく、囲碁に興じるふりをしながら、信繁は僧から天下の情勢の情報を仕入れ父の仇である徳川に反旗を翻す時を待っていたのでしょう。
信繁、領民の協力で九度山を脱出
1614年、徳川幕府の無理難題に怒った豊臣家は、極秘に日本中の職にあぶれた浪人達に、お金を撒いて打倒徳川に舵を切ります。信繁の元にも、豊臣秀頼からの使者がやってきて、支度金として、黄金200枚、銀20貫を置いて去っていきました。信繁は、快諾して、九度山を抜け出しますが、普段、信繁は九度山の領民に、畑で取れた野菜を分けたり、無料で学問を教えたりしていたので人気があり、領民は全員で示し合せ信繁が九度山を抜けるのを知らんふりしていたそうです。また、別の説では、この土地を支配していた浅野長晟(あさの・ながあきら)が、元は豊臣恩顧の武将の為、信繁が脱出しやすいようにわざと警戒を緩めていたとも言われています。こうして、大阪に辿りついた信繁は、まるで九度山に幽閉されていた鬱憤を晴らすかのように真田丸砦で徳川の軍勢を追い散らし、大阪夏の陣では、家康の本陣に突進して、家康を恐れさせる程の大手柄を立てるのです。
三国志ライターkawausoの独り言
日本一の兵と言われた、真田信繁ですが、兄の信之の話では、普段は怒るような事もなく、物腰も柔らかで人に嫌われるような所は無いという、とてもいい人でした。九度山でも、農民とも隔てを造らずに対等に付き合い、その為に、農民達は、幽閉されている罪人である信繁をとても慕ったそうです。例え、チビで歯も抜け、白髪という老け顔、不細工でも、温和で沈着な性格、そしていざとなったら勇敢で何者も恐れません。大阪夏の陣で、信繁は豊臣方の殿軍(しんがり)を勤めますが、一向に向かってこない徳川勢を見ると大笑いして、「徳川方は100万人いても、男は一人もいないと見えるな!」と叫ぶなど、勇気抜群の人物でした。その反骨精神と武勇と穏やかさは、日本史上に残る英傑と言えるでしょう。
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