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三国志と日本史の『名城対決』真田丸と陳倉城が激アツすぎる!

2016年1月4日


 

真田丸

(画像引用元:NHK大河ドラマ『真田丸』)

 

2016年のNHK大河ドラマは日本一の兵(つわもの)と謳われた、

真田幸村(信繁)の生涯を取り上げた真田丸です。

そこで、はじさんでは、真田丸と三国志の共通点について取り上げて、

三国志と真田丸を強力に応援していきます。

 

真田丸に関する記事一覧:真田丸全記事

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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そもそも、真田丸って、何の事?

 

大河ドラマを見る人には「そもそも真田丸って何?船の事?」と

思ってしまう歴史ビギナーの人もいるかも知れません。

真田丸とは、船ではなく、大阪城の南端に造られた、臨時の砦の事なのです。

真田幸村は、この真田丸という小さな砦に籠り、敵方の徳川勢に大打撃を

与えて、その名前を天下に轟かせたのです。

 

豊臣と徳川の関係悪化、幸村、真田丸を築城

 

西暦1600年、天下分け目の関ヶ原の合戦で西軍の

石田三成(いしだ・みつなり)を破り勝利した徳川家康は三年後に

江戸に幕府を開き天下を掌握しました。

しかし、破れたとはいえ、豊臣方はなお、難攻不落の大阪城を持ち、

秀吉が溜めこんだ金銀がうなるほどにありました。

 

年老いた家康は、自分が生きている間に豊臣を滅ぼそうと決意し

1614年、豊臣方が寄進した方広寺の鐘の銘文の「国家安康」が

家康の名前を引き裂いて呪うものだと言いがかりをつけます。

 

大阪方は、徳川が豊臣を滅ぼすつもりだと判断して、ふんだんに

お金を撒いて、浪人達や徳川に滅ぼされた大名の残党を集めて、

戦う姿勢を見せます。

 

真田幸村は、この呼びかけに応じて、大阪城に入り、

城の唯一の弱点と考えられた南側に扇型の砦、真田丸を築くのです。

 

真田丸に襲いかかる、徳川軍、二万六千名

大阪冬の陣 wiki

 

大阪冬の陣が始まると、豊臣方の勢力は大阪城に入り籠城し、

幸村も真田丸に入って徹底抗戦の構えを見せます。

攻める側の徳川方は、前田利常(まえだ・としつね)、井伊直孝(いい・なおたか)、

松平忠直(まつだいら・ただなお)、南部利直(なんぶ・としかど)、

松倉重政(まつくら・しげまさ)、榊原康勝(さかきばら・やすかつ)という面子で

合計26000名以上。

 

守る側の豊臣方は、真田幸村、後藤基次(ごとう・もとつぐ)、
木村重成(きむら・しげなり)長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)等

17000名以上でした。

この中で、真田幸村は5000名の兵力を有していました。

 

家康は真田丸を攻めるなと厳命するが・・

 

家康は、真田丸を攻める事を戒め威圧だけを加えるように

大将の前田利常に命じます。

そこで、利常は、塹壕と土塁を築きますが、真田勢は篠山(しのやま)という丘に

兵を配置して鉄砲を放って徳川勢の仕事を妨害します。

 

怒った前田は、篠山を奪取しようと奇襲を掛けますが、

それを察知した幸村は、篠山の兵力を撤退させたので徳川方が

踏み込んだ時にはもぬけの殻でした。

 

呆気にとられる徳川方を、真田勢は真田丸から思いっきり

馬鹿にして挑発します。

 

「やーい!バ―カ、バ―カ、オタンチン!!

もぬけの殻の丘に必死こいて攻めてやんの、ばっかでー!

ハーゲ!デーブ、チービ!悔しかったら、攻めてきてみろ!」

 

前田利常、罵倒に耐えきれず真田丸を攻撃する

 

 

「おのれ!武士に向かって、なんたる罵詈雑言、

許せぬ、打ち殺してくれる!!」

 

誇り高い前田勢は、あまりに汚い挑発に我慢できず、

一部の兵が命令を破って真田丸に突進します。

 

幸村「しめた、挑発に乗ったぞ、鉄砲隊前へ!

相手が柵にしがみつくまで、一発も撃つなよ!!」

 

前田利常は、軍が暴発したのに驚き兵を引こうとしますが、

全ては手遅れでした。

 

真田丸の柵に殺到した前田勢は、真田の鉄砲隊に

弾丸の雨を降らされ、続々と倒れていきます。

 

大阪城で火薬庫が爆発、それを見た徳川勢が殺到!

 

 

この時、大阪城内で、火薬庫が爆発します。

これは誤爆だったのですが、徳川勢は、豊臣方に潜入したスパイが

城内で反乱を起したと勘違いします。

 

「しめた!豊臣方に潜入した味方が城内で反乱を起したに違いない。

ここで、攻めこめば、大阪城は落城、俺も大大名かも、、ウヒョ♪」

 

こうして事態を静観していた井伊、松平勢も遅れてはならじと、

真田丸の横である大阪城の八丁目口、谷町口に殺到してきました。

豊臣側でも、これに対して必死に鉄砲を撃ちまくり応酬します。

 

いつまで経っても、大阪城に変化がない事から、

徳川勢は、火薬の爆発は誤爆だと悟りますが、

もう引くに引けない程に、軍勢は前のめりになっていました。

 

しかも、鉄砲を防御する竹束も鉄盾も置いてきていたので、

退却する間も、鉄砲弾を防ぐ術がなく、死傷者は激増していきます。

結果、徳川方は死傷者1万人という大損害を受けて撤退します。

この鮮やかな勝利で真田幸村の名前は天下に轟いたのです。

 

 

三国志の真田丸 陳倉の戦い

 

 

さて、三国志の世界にも、真田丸に劣らない名城がありました。

その名を陳倉(ちんそう)城といい、魏の蜀に対する防衛拠点です。

 

孔明 出師

 

西暦228年、諸葛亮孔明(しょかつりょう・こうめい)は、

北伐を開始し、南安、天水、安定の三郡を魏から寝返らせます。

しかし、街亭の戦いで馬稷(ばしょく)が敗戦、魏の挟撃を恐れた孔明は、

北伐を中断して漢中まで引き返しました。

 

ですが、魏において対蜀防衛を担っていた大将軍曹真(そうしん)は油断せず、

孔明が再び北伐に出てその途中で陳倉道を通過すると予測、

郝昭(かくしょう)に命じて陳倉城を整備増強させていました。

 

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孔明、予測通り陳倉城を包囲する

孔明 軍師

 

郝昭は字を伯道(はくどう)といい、洴州太原郡の人です。

若くして、曹操(そうそう)に仕え、勇猛果敢な武将として各地を転戦して

手柄を立て曹丕(そうひ)の時代には河西一帯の統治を任されます。

 

陸遜

 

しかし、そんな彼に与えられた兵力は1000名程度、

魏は曹休(そうきゅう)が呉の陸遜(りくそん)に大敗するなどして、

兵力が不足していて、郝昭に兵力を裂く事が出来なかったのです。

 

孔明は、陳倉道を通過すると、数万の軍勢で陳倉を包囲します。

陳倉城が難攻不落である事を承知していた孔明は力攻めを避け

郝昭と同郷の人間を派遣して降伏を促すなどしますが郝昭は拒否しました。

 

衝車、雲梯、櫓、トンネル、あらゆる方法を試す孔明

 

交渉が決裂すると孔明は、雲梯(うんてい)車と呼ばれる

長いハシゴを持つ攻城兵器で、陳倉城の城壁に取りつきます。

これに対して、郝昭は全力で火矢を射かけて、雲梯車を焼き払います。

 

 

次に孔明は、衝車(しょうしゃ)を用意して城門を討ち崩そうとしますが、

郝昭は、今度は城内のありったけの石をぶつけて、衝車を破懐しました。

 

さらに孔明は、高い櫓を組んで、城内に矢を射かけますが、これも失敗

最後には、トンネルを掘って地下から侵入しようとしますが、

それを察知した郝昭は、城内からもトンネルを掘り、蜀軍のトンネルに

油を流して火を掛けトンネルを使用不能にしてしまいます。

 

兵糧に不安がある蜀軍は20日余りで退却・・

 

 

これには、孔明も参りました、思っている以上に陳倉城に時間を取られ、

兵糧に不安があった孔明は無理攻めをせず、退却します。

こうして郝昭は、自軍に10倍する蜀軍を追い払ったのです。

蜀は、この陳倉城の敗戦が余程堪えたのか、郝昭存命中は二度と、

陳倉城を攻撃しようとはしませんでした。

 

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三国志ライター、kawausoの独り言

kawauso 三国志

 

孫子は、城攻めは下策と言っているように確かに城を守る側は

城を攻める側よりは優位に立つケースが多いです。

 

それでも、自軍に数十倍する蜀軍を迎え撃つ郝昭や、圧倒的に優位な

徳川軍を迎撃した真田幸村の重圧は大変なものだったでしょう。

真田丸や陳倉城が名城であるとはいえ、そこは幸村や郝昭の統率力あっての

大勝利だったと言えるでしょうね。

本日も真田丸&三国志の話題をご馳走様♪

 

 

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どうも、kawausoでーす、好きな食べ物はサーモンです。
歴史ライターとして、仕事をし紙の本を出して大当たりし印税で食べるのが夢です。

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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