【真田丸】三谷幸喜ならやりかねない?実は生きていた真田信繁!!頴娃にある伝・真田墓に訪れてみた

2016年1月22日


 

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真田丸

 

西暦1615年5月7日、大阪夏の陣の英雄、真田信繁(さなだのぶしげ)は

複数回にわたる徳川本陣への突撃に疲れ果て、安居神社で休憩している所を、

敵兵に討ち取られて戦死しました。

 

・・・・というのはうっそ~ん!という真田信繁生存説が実は存在するのです。

「竜馬にお任せ」で竜馬を生かして終わらせた三谷幸喜ならやりかねないw

実は生きていた真田信繁伝説とは、どんなものなんでしょ?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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真田信繁の影武者になった、真田十勇士 穴山小助(あなやまこすけ)

真田丸

 

真田信繁には、影武者の伝説があります、それは、徳川方と和睦して終わった

大阪冬の陣前から突き従っていた穴山小助という人物です。

この小助、武田家の重臣穴山梅雪(ばいせつ)の甥で実在の人物、

後に真田十勇士のモデルになっていく人物だそうです。

 

この穴山小助は、信繁に顔がよく似ていて、早くから、信繁は

影武者として小助を使って替え玉にしていたのです。

 



また、ライターkawausoがとばし記事を書いたぜww

kawauso

 

読者様「顔が似てる位で、人を騙せたら世話ねーよww

まーた、kawausoがネタ切れで、とばし記事を書いてるぜー」

 

もしかすると、早とちりして、そう思う人がいるかも知れませんが

ビデオはおろか、写真も存在しない戦国時代、実は影武者は割合ポピュラーでした。

例えば、有名な武田信玄は、末の兄弟の武田信廉(のぶかど)が

自分に似た顔形をしていたので、よく影武者として使っていました。

信玄の死後、その死は本人の遺言で三年伏せられましたが、その間は、

弟の信廉が病に伏せっている様子で、他国の使者を騙したのです。

 

当時は、室内の灯りは、ロウソク位しかないのですから、薄暗い部屋で、

信玄と信廉の見分けをつけるのは、他国の使者では難しかったのです。

 

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真田信繁、影武者を幾人も造り、大阪夏の陣に臨む

真田幸村&張遼

 

さて、真田信繁は、穴山小助以外にも、大雑把に自分に似ている程度の、

影武者を大勢任命して、同じ鎧を着せて出陣させます。

 

そして、全員が「我こそは真田左衛門左信繁なりー!!」と叫びながら、

大阪城の周辺で、突撃して行ったのです。

 

断っておきますが、徳川勢で真田信繁の顔を知っている人間なんか、

0・1%もいません、写真さえ存在しない時代なのです。

大声で真田信繁だと名乗っているんだから、きっとそうだろう

徳川の兵士は、皆、そんな程度の認識しかないのです。

 

こうして、穴山小助以下、信繁の影武者は、全て討ち死にして、

家康の本陣には、複数の真田信繁の首が届けられる事になりました。

 

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家康さえも分からない信繁の首だが・・

 

本来ならば、徳川方に信繁の顔を知っている人がいる筈なんですが、

信繁は関ヶ原で敗戦してより15年も紀州の九度山に幽閉されていたので

皆、若い頃の信繁しか見た事がありません。

 

「え~?これじゃないか、、いや、やっぱこれか??

うーーーん、こっちかも知れない・・でもなあ」

 

家康を始め、誰もどれが信繁か分からない有様でしたが、

そこに、東軍に捕らわれた、大阪方の大将の御宿正友(みしゅくまさとも)

という男が現れました。

 

正友「うおお、信繁殿、御立派な最後、、徳川殿、武士の情けで御座る、

どうか、この正友に信繁殿を供養させて下され」

 

家康は誰だか、分からない信繁の正体に困っていたので、

正友に信繁の埋葬を許す事にしました。

 

正友は、喜んで迷わず、信繁の首の一つを取ると、陣の外に出てゆきます。

 

家康「おい!正友の後をつけろ、もしあいつが、信繁を供養した後で

自分も腹を切ったら、それは本物の信繁の首だ」

 

家臣は言われた通りに気が付かれないように、正友を尾行すると、

家康が言った通り、信繁の首を埋葬した後で自分も腹を切って果てました。

 

家康「そうか!では、信繁は確かに死んだのだ、これでワシも、

枕を高くして眠れるというものじゃ、ガッハッハ!!」

 

どっこい生きていた真田信繁は、豊臣秀頼を背負い、薩摩に逃れる

鹿児島

 

しかし、御宿政友が埋葬したのは、一番、信繁に似ていた穴山小助でした。

本物の信繁は、息子の大助と共に、豊臣の御曹司、秀頼を大阪城から、

逃がすべく、秘密の洞窟を通って薩摩に渡っていたのです。

 

当時の京都の童唄には、以下のような文言があったそうです。

 

「花の様なる秀頼様を、鬼のやう成る真田がつれて、

退きものいたよ加護島(かごしま)へ」

 

鹿児島を、加護島としているのは、鬼の形相の信繁が

秀頼を守っている様子で加護と鹿児を掛けたのでしょう。

 

秀頼は身長196センチ、体重161キロのレスラー体格

 

当時、秀頼は21歳の若者で公家文化に親しんだ人だったようです。

だが、、秀頼の身長は196センチ、体重161キロもあったらしく、

小柄な人と書かれた信繁が連れていったというのは???です。

 

秀頼が、小柄な信繁を担ぎあげて逃げていったなら、

まだ信憑性があるのですが・・

 

真田信繁が、薩摩に落ちのびた事を記す 真田三代記

鹿児島

 

では、薩摩に落ちのびて行ったのは、どのような面子だったのでしょう。

最初に、真田信繁生存説を唱えた書物である、元禄年間に造られた

真田三代記によると、薩摩まで落ちのびた豊臣方の面々は、

 

豊臣秀頼、真田信繁、真田大助(息子)後藤基次(もとつぐ)、

長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)で、彼等は無事に

薩摩藩まで落ちのび島津義弘に歓迎されたそうです、

真田信繁は、数年、薩摩に滞在し、病を得て病没しました。

 

※えーっと、真田三代記自体が、大阪の陣から70年以上経過して書かれた、

真田家age↑の読物であるという事は、もちろん内緒です。

 

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