みんなが名乗りたがる最高の位!皇帝と王の違いについて分かりやすく解説

2016年3月18日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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秦の始皇帝は、王に上位する皇帝の価値を産み出す

キングダム 始皇帝

 

紀元前221年、七雄の一国、秦は500年の争乱を終わらせて、

始めて中国を統一します。

 

ここで、秦王政は、以前の最高位である王を超える称号の創設に

着手しました、もはや手垢のついた王には満足できなかったのです。

そこで、生まれたのが、中国古代の三人の神を表わす三皇と、

五人の聖帝を表わす五帝から、それぞれ名前を取った「皇帝」という称号でした。

 

以後、中国においては、王は皇帝が任命する地位の一つになり、

唯一絶対の地位は皇帝という事になっていくのです。

 

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皇帝が出来て王の地位は、どうなったのか?

始皇帝 キングダム

 

皇帝という称号が出来て、前漢の時代に入ると、

王の称号は皇帝の息子達に与えられる称号になります。

彼等は、諸侯(しょこうおう)と呼ばれ、特定の広さを持つ領地に赴任して、

ヘマをしない限りは、代々、○○王として、その土地を支配しました。

 

例えば、前漢の7代皇帝である武帝は、景帝の子でしたが、

四歳で、膠東王(こうとうおう)に任命されています。

王は、こうして、皇帝の王子が任命される地位になっていきます。

 

もっとも乱世になると、それぞれの実力者が王になるような、

時代に戻っていきます、晋の後の150年の争乱、五胡十六国の

争乱の時代などがそうです。

 

 

また、王位は、中華王朝に臣従する、中華の外にある

異民族の国の支配者に与える称号としても活用されました。

日本でも卑弥呼(ひみこ)が西暦239年(238年説もあり)に、

魏の曹芳により、親魏倭王に任命されていますし、

それより時代は降りますが、5世紀の大和朝廷の五人の大王(おおきみ)も、

それぞれ、倭王(わおう)の称号を受けています。

 

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では、五爵はどうなったのか?

 

 

王の上に皇帝が登場すると、爵位は、五爵から二十爵まで数が増えます。

その中の下の階級には庶民に与えられるようなものもありました。

 

これは、国で祝い事があった時などに、一律に庶民にも配られ、

皇帝の権威を国全体に及ぼそうと考えたものでした。

別に苦労なくもらえるので特典という程の事もなく、

ぶっちゃけ大したものではありませんでした。

 

それに庶民や下級の吏が登れるのは、8番目の公乗まで、

そこからすぐ上の、五大夫の爵位は、官秩600石以上の官に限られたので、

事実上は二十爵ではなく十二爵とも言えます。

 

もっとも上の二十爵は、列侯(れつこう)といい、王族ではない人間が

登れる最高の位になります、領地を与えられ、と呼ばれます。

 

三国志で、○○侯と呼ばれて、食邑(しょくゆう)を与えられる武将達は、

すべて、この列侯という事になります。

 

列侯の下は、十九爵で、関内侯(かんないこう)といいますが、

領地もなく給与だけで、一爵違えば、天地の差と言われました。

そこから、爵位は増減を繰り返しますが、1911年に

辛亥(しんがい)革命で滅ぶ、清朝まで連綿と続いていきます。

 

唯一絶対の筈が乱立する皇帝・・

皇帝いっぱい

 

始皇帝が定めた皇帝の階級は、以後の漢王朝にも踏襲されていきます。

しかし、前漢末の乱世になると、同時期に幾人も皇帝が出るようになり、

唯一無二のブランドに陰りが生じてきます。

 

極めつけには、後漢末になると、後漢を滅ぼして、

皇帝に即位した曹丕(そうひ)の魏王朝、そして、後漢の正統後継者を名乗り、

劉備(りゅうび)が建国した蜀漢王朝、さらに江南の土地で

孫権(そんけん)が興した呉王朝が並び立つ事態になります。

 

一人しかいない筈の皇帝が3名登場し、さらにかなり長い時期、

存続するという異常事態の出現です。

 

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悩んだ末に陳寿が取った方法、無かった事にする!

司馬炎 はじめての三国志

 

西暦280年、曹魏から禅譲を受けて、晋を建国した皇帝司馬炎(しばえん)は、

最期に残った呉を滅ぼし、100年ぶりに中国を統一します。

その後、晋の官吏として、三国志を書く事になった陳寿(ちんじゅ)は、

歴史に忠実であるべきという歴史家の態度と、

皇帝は唯一絶対という原則論に、板ばさみになります。

 

つまり、魏を継いだ唯一正統の国である晋の立場としては、

反乱者である、呉の孫権や蜀の劉備を皇帝として書く事は出来ないのです。

そこで、陳寿は悩んだ末に、劉備を蜀主、そして孫権を呉主としました。

こうする事で、皇帝という称号を回避したのです。

 

因みに劉禅については、二代蜀帝ではなく、先主の劉備の次なので

後主(ごしゅ)と明記し、呉については、孫権以後の3代の皇帝は、

三嗣主(さんししゅ)という括りになっています。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

以上、ざっと、王や皇帝、侯の違いを書いてみました。

爵位については、時代により、大きな違いがあるので、

ここでは、大雑把に触れていますが、興味がある方は調べてみて下さいね。

本日も三国志の話題をご馳走様でした。

 

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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