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秦の始皇帝は、王に上位する皇帝の価値を産み出す
紀元前221年、七雄の一国、秦は500年の争乱を終わらせて、
始めて中国を統一します。
ここで、秦王政は、以前の最高位である王を超える称号の創設に
着手しました、もはや手垢のついた王には満足できなかったのです。
そこで、生まれたのが、中国古代の三人の神を表わす三皇と、
五人の聖帝を表わす五帝から、それぞれ名前を取った「皇帝」という称号でした。
以後、中国においては、王は皇帝が任命する地位の一つになり、
唯一絶対の地位は皇帝という事になっていくのです。
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皇帝が出来て王の地位は、どうなったのか?
皇帝という称号が出来て、前漢の時代に入ると、
王の称号は皇帝の息子達に与えられる称号になります。
彼等は、諸侯王(しょこうおう)と呼ばれ、特定の広さを持つ領地に赴任して、
ヘマをしない限りは、代々、○○王として、その土地を支配しました。
例えば、前漢の7代皇帝である武帝は、景帝の子でしたが、
四歳で、膠東王(こうとうおう)に任命されています。
王は、こうして、皇帝の王子が任命される地位になっていきます。
もっとも乱世になると、それぞれの実力者が王になるような、
時代に戻っていきます、晋の後の150年の争乱、五胡十六国の
争乱の時代などがそうです。
また、王位は、中華王朝に臣従する、中華の外にある
異民族の国の支配者に与える称号としても活用されました。
日本でも卑弥呼(ひみこ)が西暦239年(238年説もあり)に、
魏の曹芳により、親魏倭王に任命されていますし、
それより時代は降りますが、5世紀の大和朝廷の五人の大王(おおきみ)も、
それぞれ、倭王(わおう)の称号を受けています。
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では、五爵はどうなったのか?
王の上に皇帝が登場すると、爵位は、五爵から二十爵まで数が増えます。
その中の下の階級には庶民に与えられるようなものもありました。
これは、国で祝い事があった時などに、一律に庶民にも配られ、
皇帝の権威を国全体に及ぼそうと考えたものでした。
別に苦労なくもらえるので特典という程の事もなく、
ぶっちゃけ大したものではありませんでした。
それに庶民や下級の吏が登れるのは、8番目の公乗まで、
そこからすぐ上の、五大夫の爵位は、官秩600石以上の官に限られたので、
事実上は二十爵ではなく十二爵とも言えます。
もっとも上の二十爵は、列侯(れつこう)といい、王族ではない人間が
登れる最高の位になります、領地を与えられ、侯と呼ばれます。
三国志で、○○侯と呼ばれて、食邑(しょくゆう)を与えられる武将達は、
すべて、この列侯という事になります。
列侯の下は、十九爵で、関内侯(かんないこう)といいますが、
領地もなく給与だけで、一爵違えば、天地の差と言われました。
そこから、爵位は増減を繰り返しますが、1911年に
辛亥(しんがい)革命で滅ぶ、清朝まで連綿と続いていきます。
唯一絶対の筈が乱立する皇帝・・
始皇帝が定めた皇帝の階級は、以後の漢王朝にも踏襲されていきます。
しかし、前漢末の乱世になると、同時期に幾人も皇帝が出るようになり、
唯一無二のブランドに陰りが生じてきます。
極めつけには、後漢末になると、後漢を滅ぼして、
皇帝に即位した曹丕(そうひ)の魏王朝、そして、後漢の正統後継者を名乗り、
劉備(りゅうび)が建国した蜀漢王朝、さらに江南の土地で
孫権(そんけん)が興した呉王朝が並び立つ事態になります。
一人しかいない筈の皇帝が3名登場し、さらにかなり長い時期、
存続するという異常事態の出現です。
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悩んだ末に陳寿が取った方法、無かった事にする!
西暦280年、曹魏から禅譲を受けて、晋を建国した皇帝司馬炎(しばえん)は、
最期に残った呉を滅ぼし、100年ぶりに中国を統一します。
その後、晋の官吏として、三国志を書く事になった陳寿(ちんじゅ)は、
歴史に忠実であるべきという歴史家の態度と、
皇帝は唯一絶対という原則論に、板ばさみになります。
つまり、魏を継いだ唯一正統の国である晋の立場としては、
反乱者である、呉の孫権や蜀の劉備を皇帝として書く事は出来ないのです。
そこで、陳寿は悩んだ末に、劉備を蜀主、そして孫権を呉主としました。
こうする事で、皇帝という称号を回避したのです。
因みに劉禅については、二代蜀帝ではなく、先主の劉備の次なので
後主(ごしゅ)と明記し、呉については、孫権以後の3代の皇帝は、
三嗣主(さんししゅ)という括りになっています。
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三国志ライターkawausoの独り言
以上、ざっと、王や皇帝、侯の違いを書いてみました。
爵位については、時代により、大きな違いがあるので、
ここでは、大雑把に触れていますが、興味がある方は調べてみて下さいね。
本日も三国志の話題をご馳走様でした。