赤兎馬(せきとば)が活躍できたのは武霊王のおかげ

2015年8月25日


三国志 武器

 

三国志の見所は、武将同士の馬上での一騎打ちでしょう。

 

呂布(りょふ)関羽(かんう)から赤兎馬を取ってしまうと

徒歩か戦車で敵陣に突入する事になり、あまり様になりませんよね?

しかし、元々、中国では歩兵が戦闘の主体で、馬には車を引かせて、

人がそれに乗って戦う戦車として使われるのが主でした。

 

その状況を劇的に変えて、赤兎馬(せきとば)のような騎兵が活躍できるように

してくれたのが、趙の武霊(ぶれいおう)なのです。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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漢民族の戦車、騎兵に手も足も出ず

騎馬兵 騎馬軍団

 

華北は大河である黄河が何百万回と溢れて、

周辺の地形を削ったので、平坦な土地が広がっていました。

このような土地で起こった中華文明は平坦地を活かしての

戦車による戦争の決着方法が主流になったのです。

 

しかし、困った事が起きました、漢民族同士は戦車戦で戦えても

周辺の異民族は、戦車など持っておらず、裸の馬に簡易的な鞍を

乗せて、矢を放ちながら襲いかかってくるのです。

 

自由自在に動きまわれ、かつ動きが早い騎兵に対して、

漢族の戦車は、色々引っ張っているので動きも遅く、

こまわりも利きません。

 

なので、戦車は騎兵の格好の標的となり全滅する事もしばしばありました。

また、国境周辺で略奪の知らせを聴いて戦車で駆けつける頃には、

とっくに略奪が終了して異民族が引き上げているケースもありました。

 

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圧倒的に優位な騎兵を、あいつら野蛮人wwで済ます漢民族

張任

 

しかし、このような圧倒的な騎兵の力を見せつけられても、漢民族は

「あいつら野蛮人だから戦車を使った優雅な戦争を知らないんだよ

可哀想な連中だよなwww」

と言うばかりで、騎兵を戦術に取り入れようとは一切しなかったのです。

 

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邪魔をしたのは中華民族というプライド

劉ぐ

 

それは、自分達こそが世界で一番優れているという中国伝統の

華夷秩序が邪魔をしていた為でした。

 

自分達が野蛮人と見下している異民族の真似をして騎兵を受け入れる

という事は、彼等のプライドが許さなかったのです。

 

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革新的な英雄、趙の武霊王出現

赤兎馬と武霊王

 

そのような漢民族の無意味なプライドは何百年も続きますが、

遂に、紀元前340年、戦国七雄の一国、趙に武霊王が誕生します。

 

武霊王は、思考が柔軟であり華夷秩序に捕らわれない人でした。

 

趙の近くには中山国という狄(てき)人が建国した国があり、彼等は、

騎兵を駆使して趙国内に入り、略奪をほしいままにしていたのです。

 

武霊王「幾ら、蛮族を貶めた所で負けている事には違いがないではないか?」

 

武霊王は、中山国の騎兵を見ないふりをして済ます趙の政治に疑問を持ち

極秘に部下を派遣して騎兵というものを調査させます。

 

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胡服騎射(こふく・きしゃ)を採用した武霊王に立ちはだかる華夷秩序

 

数年の後、武霊王は調査を元に、実際に馬に乗り異民族が着る

上下が分かれた戎(じゅう)服を着てベルトを締めてみました。

 

その軽快な動きは、戦車しか知らない武霊王を驚愕させるものでした。

 

「これは素晴らしい、この胡服騎射を導入できれば趙は中山国どころか

中華を統一できるに違いない」

 

早速、武霊王は胡服騎射を趙として正式に採用すると宣言します。

しかし、それに対して、家臣や王族は露骨な反対を繰り広げました。

 

「王は気が違われたのだ、大国晋の末裔である我らが

蛮族の真似など出来るものではない」

 

「あのようなみっともない衣服を着る位なら死んだ方がマシだ」

 

「胡服騎射など採用すれば、趙は野蛮人の仲間になったと六国の

侮りを受け、外交は危機に瀕するぞ」

 

家臣達は口々に胡服騎射反対を唱え、賛成は極く一部に留まります。

 

 

強制をせず、粘り強い対話を続けた武霊王

 

 

ここで武霊王が、「私が決めた事だ逆らうものは処罰する」と言えば

表向きの反対は抑える事が出来たでしょう。

 

しかし、武霊王は、あえて、それはせずに、反対意見には、

懇切丁寧に説明を行い理解を深める事に努めました。

 

武霊王「私が死んでから、胡服騎射が捨てられるようでは意味がない

それを防ぐには粘り強く、その利益を説き趙にとって、

胡服騎射が必要である事を理解してもらわないといけないのだ」

 

 

武霊王の叔父、公子成(こうし・せい)病気と称して家に引きこもる

 

 

武霊王の胡服騎射に一番反対したのは、皮肉にも叔父である公子成でした。

毎日、毎日、繰り返される議論に嫌気がさした彼は病気と称して、

自宅に引きこもり宮殿には来なくなります。

 

これは武霊王には打撃でした、親族を説得できないなら、

胡服騎射を徹底するのは不可能だからです。

 

武霊王は意を決して、前例を破り、自ら見舞いと称して公子成を

説得に向かいます。

 

公子成は、ベットから涙ながらに胡服騎射を考え直し伝統ある趙の王として

相応しい振舞いをして下さいと哀願します。

 

しかし、武霊王は首を振って、さらに説得しました。

 

武霊王「北の山奥に住む人は、獣を狩り、その肉を食べて、その皮を着ます。

南の海辺に住む人は、魚を捕り、その肉を食べて、その皮を着ます。

どちらが進んでいて、どちらが未開であるとは言えません。

人はただ、その環境にあわせて最善と考える生活を構築するのです。

翻って考えれば、中山国は山が多く、戦車が用を成しません。

そこで、胡服して騎射するのであり、彼等が戦車を蔑み、

騎兵を貴んでいるのではありません、土地にあった戦い方をしているだけなのです。

これに進んでいるとか、野蛮であるという事は当てはまりません」

 

公子成は武霊王の説得に遂に折れ、自ら胡服して宮殿に上がり、

反対派の貴族を驚かせました。

 

武霊王、胡服騎射して中山国を滅ぼす

 

 

国論を統一した武霊王は、すぐに騎兵を組織して中山国に攻め込んで

これを破り自国に組み込みました。

 

胡服騎射を採用した趙軍は強力になり、事態を傍観していた六国も

慌てて、戦車とは別に、騎兵を組織するようになります。

 

天下に王手を掛けた武霊王ですが、後継者争いを収拾できず

紀元前295年、45歳の若さで息子の恵文王の軍に包囲されて餓死します。

 

皮肉な事に、武霊王が提唱した騎兵の有用性を最も理解したのは

趙ではなく西の大国、秦でした。

 

秦は7カ国で最大規模の騎兵を創設

始皇帝 はじめての三国志

 

秦は10000騎という七カ国では最大規模の騎兵を創設して

圧倒的な破壊力で中華統一に進んでいく事になります。

 

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赤兎馬は、胡服騎射なしには無用の長物だった

赤兎馬 呂布

 

従来、中国の馬は戦車を引っ張るだけなので、

ロバのような体格の小さいもので充分でした。

 

しかし、中国が騎兵を採用した事で、匈奴のような遊牧民にも

対応できるようになり、必然的に馬の品種改良が必要になり、

遥か中央アジアのトルクメニスタンまで大型の馬である、

汗血馬(かんけつば)を求めるという需要が産まれてきたのです。

 

もし、武霊王が周囲の反対に負けて、胡服騎射を引っ込めていたら、、

中国が戦車から騎兵に移行するのもかなり遅れ、秦も騎兵隊を組織せず、

天下統一の事業も大幅に遅れたかも知れません。

 

そうなれば、汗血馬の需要もないので、赤兎馬は、はるばるシルクロードを

渡る事もなく、呂布や関羽も、徒歩かロバが引いた戦車で戦うような、

地味な三国志が展開していたかも知れないのです。

 

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三国志ライターkawausoのヒヒ―ンごと

kawauso 三国志

 

戦車による戦争は、後漢の時代には完全にすたれてしまいます。

それは、遊牧民の匈奴(きょうど)との戦いの影響が大きいでしょう。

 

武霊王がいなくても、いつか時代遅れの戦車戦は時代の要請で

終わっていたかも知れませんが、それは何十年、或いは何百年の

タイムラグを生じた可能性もあります。

 

私達がイメージする三国志、騎兵の勇壮な姿は、やはり武霊王の

英断があってこそのものだと思います、ヒヒ―ン。

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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