魏は色々な政策を実施して、統治をおこなった行政官が数多く存在し、「はじめての三国志」でも何人か紹介させて頂きました。今回紹介する行政官は、民衆の利益を第一に考えて、色々な政策を実施した行政官・鄭渾(ていこん)を紹介したいと思います
この記事の目次
兄に誘われ、長安へ
鄭渾は河南郡(かなんぐん)開封の出身です。彼の家は代々儒学者を多く輩出してきた家柄に生まれます。彼の兄は長安で役職に就いており、兄に誘われて鄭渾は長安へ赴きます。
袁術の元に身を寄せる
鄭渾は長安で色々な物を見て、触れて、様々な人と出会い、自らの見識を高めていきます。そんな充実した毎日を送っていた鄭渾に事件が起きます。兄鄭泰(ていたい)が荀攸や何顒(かぎょう)らと共に董卓暗殺事件を謀ります。だがこの計画は未然にバレてしまい、兄達は逃亡。鄭渾は兄の子供を連れ、長安から脱出。淮南で勢力を張っている袁術の元へ身を寄せます。袁術は鄭渾を迎え入れ、大いに厚遇します。しかし鄭渾は、袁術はいずれ滅びると予見。彼の元を早々に離れ、豫州刺史である華歆(かきん)の元に身を移します。
曹操に仕える
曹操(そうそう)は鄭渾の名声を聞き、彼を呼び卲陵(しょうりょう)の県令に任命します。鄭渾は卲陵に赴くと県内は非常に荒れておりました。民衆は田畑を耕さないため、生産が行われておりませんでした。また民衆は貧困にあえいでいたため、子供を殺して食い扶持を減らしていました。鄭渾はこの状況を見て、民衆に農耕と養蚕(ようさん)を行うよう厳命。その後稲田を開墾させ、子供を捨てる罪を重罪と定めます。民衆は始め鄭渾を恐れ、彼の命令に大人しくしたがっていましたが、次第に土地が肥え、豊かになっていくと、民衆は多くの子供を育て始めます。こうして豊かになった卲陵の人々は鄭渾を称え、自らの子供の字に鄭の字を用いたと伝えられます。
民衆を危機に陥れた反乱軍を討て(関中の豪族編)
鄭渾は曹操から功績を認められ、左馮翊(ひょうよく)に任命されます。彼が左馮翊に赴いた頃、関中で馬超・韓遂らが挙兵。関中の豪族達は彼らに従い多くが叛旗を翻します。曹操は関中の反乱勢力の討伐を決意し、軍を向かわせます。関中で反乱を起こした豪族の一人である梁興(りょうこう)は民衆を強制的に徴発し、関中の各県に攻撃を開始します。諸県の役人は梁興を恐れ、鄭渾に「役所を放棄し、険阻な地に逃げたい」と訴えます。しかし鄭渾は彼らの訴えを却下し諸県に「城郭を補修して、守りを固めよ」と通達します。鄭渾は通達を出した後、兵士になった者に高額な恩賞を約束し、民衆を徴兵。鄭渾はまとまった兵力を手に入れると梁興の軍勢を蹴散らします。その後梁興は夏侯淵の軍勢に敗北し、梁興は捕斬されます。
民衆を危機に陥れた賊を討て(山賊編)
梁興を討った後、山賊が夏陽(かよう)の県長や卲陵の県令を脅迫し、民衆を連れて山にこもります。鄭渾は山賊を直ちに追撃し、討ち果たします。また趙青龍(ちょうせいりゅう)と名乗る賊が反乱を起こすと、鄭渾はすぐに軍を派遣し、彼を討ち取ります。こうして彼が治める地域には山賊はいなくなり、民衆達は安心して仕事に復帰します。
長安一帯を管理する
曹操は関中の反乱を鎮圧すると、漢中の張魯討伐に赴きます。鄭渾は長安一帯を統治する行政官・京兆尹(けいちょういん)に就任。彼は長安一帯に住む人々が新たに集まった人達であると知ると、世帯持ちと単身者を組み合わせます。また信義・温情を持つ者と老人を組ませて農事を奨励し、禁令を明らかにすることで悪事を働いた者を摘発して行きます。こうして長安一帯から盗賊の類は消え、民衆は農事に励んでいきます。
曹丕の時代になっても民衆の利益を第一に
曹操が亡くなり、曹丕が皇帝の位を継ぐと陽平・沛郡の太守に任命されます。彼は任地へ赴くと低湿な土地であるがゆえに、水害と飢饉が発生しておりました。鄭渾はこの状況を打開する為、率先して堤防工事に従事します。この状況を見た民衆は大いに感激し、鄭渾と共に堤防づくりを行います。こうして堤防は一冬で完成。この堤防が出来た後、田畑の面積と収穫量が毎年増加し、国の税収も増加していきます。民衆は鄭渾に感謝の意を示す為、堤防近くに石碑を建て鄭渾が行った治績の功績を刻み、民衆はこの堤防を「鄭陂(ていは)」と呼びます。
何処に行っても民衆の利益を考えて政策を行う
山陽・魏郡の太守となった時も民衆の安定を第一に考えて、政策を行っていきます。民衆は材木の伐採しすぎで、木材が不足で困っておりました。そこで鄭渾は成長が容易である楡(にれ)を植えて垣根とし、果樹を植えるようにと命令を出します。数年後楡は大いに成長し、果樹もまた楡の周りに身をつけます。鄭渾は民衆に果樹を自由にとれるように取り計らいます。こうして木材不足を解消し、民衆は豊かな生活を送る事になります。
その後曹叡(そうえい)から今までの実績が認められ、将作大匠(しょうさくだいしょう)に任命されます。しかし将作大匠に任命されてから数年後、各地の太守を歴任した名行政官はひっそりと亡くなります。
三国志ライター黒田廉の独り言
鄭渾は民をどうすれば富ます事が出来るのかという事を念頭に、仕事をしておりました。彼は仕事に一途であったため、家庭を顧みませんでした。そのため彼の家には蓄財など一切なく、妻と子供は寒さに苦しんでいたそうです。このような民の事に目を向ける様な政治家が今の世の中に現れてくれれば、日本の国内はかなり良くなると思います。
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