ジョン・ウー監督の作品で一躍三国志の名を広めた映画「レッドクリフ」。ヒロインには周瑜の妻である小喬(リン・チーリンさんが役を熱演。美しい姿に感動)が抜擢されて、曹操相手に大活躍をします。あれは映画用の演出として、実際の小喬、または姉の大喬はいったいどのような人物だったのでしょうか。
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父親の喬公とは?
呉書にも二人の姉妹の父親は喬公であると書かれています。が、それ以上はわかりません。一説では、喬公とは喬玄のことだとされています。喬玄は霊帝の時代に、三公のひとつ太尉に就いたほどの大物政治家ですが、黄巾の乱が起こる前に病死しています。
当時はまだ無名に近い曹操の訪問を受けていたく感動し、妻子を託したいとまで口にしたといわれています。三国志演義では、喬公は「喬国老」と呼ばれ、赤壁の戦い以降も呉で生き続けている設定になっています。
喬公のふたりの娘が住んでいた場所は
孫策・周瑜が二人の姉妹に出会ったのは、揚州盧江郡の皖城です。ここは袁術の配下である劉勲が治めていた地です。以前にご紹介しましたが、劉勲は袁術亡き跡、その妻子を皖城で預かっていました。
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そこを同盟を結んでいたはずの孫策に落とされるのです。袁術の妻子だけでなく劉勲の妻子も孫策の手に落ちます。
大喬・小喬を孫策・周瑜が手に入れたのもこのときなのです。あれ?じゃあ、二喬(姉妹)は袁術と関係があったんじゃないだろうか……と勘ぐってしまいますね。
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199年にプロポーズを受ける
月も光を失い、花も恥じらうほどの美貌の姉妹をひとめ見て、孫策と周瑜は妻に迎えます。シチュエーションは物語それぞれで、北方三国志では、孫策らは自身の身分を晒さずに誘拐して結婚を迫る場面が描かれています。
199年12月に、ほぼ強奪という形で手に入れたのは間違いなさそうです。呉書には孫策が周瑜にこう語っています。
「喬公のふたりの娘は故郷を失うことになったわけだが、われわれを婿どのにすることができたのだから満足だろうよ」
さすがは孫策。高飛車です。ここでいう故郷は盧江郡皖城のことなのか、それとも袁術の一族とともに逃れてきた九江郡寿春のことなのか、定かではありません。
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200年には孫策死亡
200年の4月、孫策が暗殺されます。大喬と孫策は結ばれてから半年もたたずに死別することになるのです。孫策には息子がおり、孫紹という名前ですがほとんど歴史の表舞台には出てきていません。
生まれはこの200年だそうです。孫策と大喬の子なのかは不明です。でももしその前に誰かの子を大喬が身籠っていたら、実は孫策の子ではなく、別の男の子ということも考えられます。ゴシップネタみたいな感じになってきましたが、袁術が病死したのが199年6月、仮に大喬が袁術の側室であったのならば、孫紹は袁術と大喬の子であった可能性もあるのです。DNA鑑定してみてほしいですね。
208年の大戦のきっかけになる
孫策は死んでも朋友の周瑜は生き続け、主君孫権のために曹操と戦います。世にいう「赤壁の戦い」です。このとき、降伏か戦争かを迷う孫権を説得したのが、周瑜であり、魯粛であり、孔明といわれています。
三国志演義では、孔明は、曹操が建築する宮殿「銅雀台に二喬を侍らせたい」と云っていると孫権に語り、怒りに火をつけています。
三国志時代の峰不二子だったかも
想像を膨らませると、二喬は、喬玄から曹操に将来を託されながらもスーパーエリートの袁術の側室となり、孫策に強奪されてからは、曹操が奪還に燃えて戦いを挑むという図式が浮かんできます。もし、そうだとすると三国志の英雄たちを心ならずも手玉にとっていますねー。天然の峰不二子ちゃんみたいです。過ぎたる美貌は罪なのでしょうか。
三国志ライター ろひもと理穂の独り言
袁術の女性面での浮いた話は詳しく残されていません。イメージとしてはたくさんの美女を侍らせていた感じですが、実際は一途な男だったかもしれません。息子・娘がいましたので、正室、側室がいたのは間違いないでしょう。まさかその子の母親が大喬、小喬のどちらかだったり……邪推でしょうかね。謎多き二人の美人姉妹。実にミステリアスですね。
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