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袁盎(えんおう)とはどんな人?国家の為にあえて諫言を発し続けた政治家 Part.1

2016年4月8日


 

劉邦と簫何

 

前漢は劉邦(りゅうほう)が天下統一した直後は功臣達も多く、漢の国は安定しておりました。

しかし劉邦死後、劉邦の妻が権勢をふるいます。

その為、呂氏が漢の朝廷で幅を利かせ、呂氏に逆らう者は次々に殺されて行きます。

呂雉の死後、呂氏一派は排除され、文帝・景帝の時代になります。

今回紹介するのは呂雉の時代に漢の臣となり、

相手が高位の人物や皇帝にはっきりと物を言い、

国家の為に身命を尽くした政治家である袁盎(えんおう)を紹介したいと思います。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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兄の推挙で漢に仕える事に

 

袁盎は楚の出身です。

父は盗賊を家業としていた為、楚の国から関中へ強制移住させられます。

彼は兄袁噲(えんかい)が漢の高官であった事から、兄の推挙により侍従に

任命され、漢王朝へ仕える事になります。

 

皇帝に周勃のイメージを聞く

 

 

漢の功臣である周勃(しゅうぼつ)は群臣や皇帝から重く扱われている

臣下で、袁盎が漢に仕えた当時、丞相として活躍しておりました。

彼は会議が行われたある日、文帝が周勃を丁重に送り出している姿を目撃。

この姿を見た袁盎は文帝に「陛下は丞相をどのような人物であると思いますか。」と

質問します。

文帝は「国家柱石の臣である」と述べます。

 

「国家柱石の臣」とは違う

 

 

彼は文帝に対して「丞相は功績を挙げた臣であって、国家柱石の臣ではありません。

そもそも国家柱石の臣とは主と共に生き、主が亡くなればともに死す臣の事を言います。

呂皇后が権勢を極めていた頃、呂氏一族が権力を握り、

丞相や王の地位を占めておりました。

この事態の時に周勃殿は軍を握っていたのにも関わらず、

この事態を改善しようとしませんでした。

呂皇后が亡くなった時、大臣や実力者たちが協力して、

呂氏一派に反抗を行うと軍を握っていた周勃殿が大臣達に協力し、功績を挙げます。

周勃殿はこうして功を挙げた臣であり、国家柱石の臣ではありません。

さて最近の丞相は陛下に対して傲慢な態度があるように思えるのに対して、

陛下は謙虚すぎるのではないでしょうか。

臣下と陛下との間で当然あるべき礼式を取らない事は、

陛下にとってよい事ではありません。」と諫言を述べます。

文帝は彼の意見を聞き、会議があると周勃に対して威厳のある態度を取り始めます。

 

周勃にキレられるも…

 

 

周勃は文帝の態度が違ってきた事に違和感を感じます。

彼は文帝の態度が変わったのは、袁盎が文帝に諫言を行ったと聞き激怒。

そんな中、周勃は袁盎を宮殿で見かけ「俺はお前の兄と友人であるのにも関わらず、

貴様が陛下に俺の事を諫言するとは、思いもよらなかったぞ小僧。」と

大いに悪態をつきます。

袁盎は周勃に対して一切謝らず、飄々とした態度でその場を離れます。

その後周勃は丞相を辞めさせられ、領国へ帰る事になります。

 

周勃の罪を晴らす

 

 

周勃は領国に帰ると、彼の側近が文帝に「周勃が反乱を起こそうとしている」と

でっち上げの報告をします。

文帝はこの報告を聞き、周勃を首都洛陽に呼び寄せ、彼を捕縛します。

王族や功臣らは誰一人として、周勃を助けようとしませんでした。

しかし一人だけ、彼の罪を晴らそうと動いた人がおりました。

その人こそ袁盎です。

彼は周勃の無実を証明する為、色んな所に手をまわして助命を図り、

様々な情報を集め、彼の無罪を証明します。

その後周勃は解放されますが、突然の出来事に大いに驚きます。

彼はなぜ釈放されたのかを側近に聞くと「袁盎殿が力を尽くしてくれたのです。」

と聞かされます。

周勃はこの事実を聞くとすぐに袁盎の元に行き、

今までの事を謝ると共に彼と親交を結んでいきます。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

古い国家を打ち倒して新しい国家が生まれる時必ず優良な臣下が集まります。

袁盎もその一人です。

彼は国家の為に丞相であろうと皇帝であろうと、間違った事に対して諌言を行います。

彼の諫言は中々厳しい者ですが、皆受けて入れていきます。

しかし、はっきりと反対意見を言う為、後に彼の身に禍が起こってしまいます。

袁盎(えんおう)は兄の推挙によって、侍従として漢の宮廷につかえます。

彼は丞相にへりくだっている皇帝に対し、臣下に必要以上な礼を

見せると臣下が傲慢になっていくと諫言。

皇帝は袁盎の諫言を受け入れ、臣下に対して威厳を取り戻していきます。

その後も度々皇帝や高官にいる人に遠慮せずバシバシ諫言を行っていきます。

 

淮南王の傲慢を正すように進言

 

 

淮南王である劉長(りゅうちょう)は漢の功臣である審食其(しんいき)を

無罪の罪で殺害。

また諸侯に対して無礼な振舞いをしていました。

袁盎(えんおう)は文帝に「諸王が傲慢で無礼になれば、必ず禍が発生します。

今の内に彼らの領地を削減し、罰を与えていた方が良いと思います。」と

進言します。

しかし文帝は彼の諫言を受け入れず、淮南王の傲慢に咎めを与えませんでした。

 

淮南王が謀反の協力者として逮捕される

 

 

淮南・劉長はどんどん調子に乗り、傲慢になっていきます。

こうした中、一つの事件が起きます。

棘蒲侯(きょくほこう)柴武(さいぶ)の息子が反乱を企て、処断されます。

この事件に淮南王である劉長も加担していることが発覚。

文帝は淮南王を蜀の地へ流刑させることを決め、彼を護送車に入れて向かわせます。

袁盎は文帝に「陛下は淮南王の傲慢を許していた事が原因で、

今日の事態にまで至ったのです。いきなり傲慢の王である淮南王に

このような仕打ちをおこない、もし彼が途中で亡くなってしまったら

陛下が傲慢な弟に腹を立てて、彼を殺したと評判が立つでしょう。

そのような評判が立つ前に彼を丁重に蜀へ赴任させた方が良いと思います。」と

淮南王に対しての扱いに反対します。

文帝は袁盎の進言を受け入れず、護送車で彼を蜀の地へ運んでいきます。

だが袁盎の言った通り、淮南王は蜀に着く前に病死してしまいます。

文帝は淮南王が亡くなった事を知り、大いに悲しみます。

 

政敵によって官位を剥奪される

 

 

袁盎は文帝の死後、各国の丞相を歴任し、

再び漢の侍従武官長(じじゅうぶかんちょう)として朝廷に戻ってきます。

彼は侍従武官長として真面目に勤務しておりましたが、一人気に食わない人が

居ました。

その人物の名を鼂錯(ちょうそ)と言います。

鼂錯も袁盎の事が気に食わず、お互いが同室で話し合った事は一度もありませんでした。

文帝の死後、景帝(けいてい)が皇帝の位に就くと、鼂錯は副丞相に昇進。

その後彼は袁盎が呉王から金銭を受け取っていた問題を摘発し、

彼を有罪にして官位を剥奪。

こうして鼂錯は政敵で気に食わない男であった袁盎を

朝廷から追い出す事に成功します。

 

漢帝国を揺るがした大乱・呉楚七国の乱

 

 

こうして袁盎を官界から追い出した鼂錯は大いに満足します。

その後楚の地方で漢帝国を揺るがす大反乱が発生。

後世この反乱を「呉楚七国の乱」といいます。

鼂錯はこの反乱が発生した時側近や書記官達に

「袁盎は呉王に反乱を起こす意思はないと言っておったが、

今呉王ら諸王が反乱を起こしている。

奴は呉王の計画を知っておったのに隠蔽していた可能性がある。

彼を再度取り調べれば、反乱軍の計画が分かるはずだ」と

言います。

しかし書記官らは「今袁盎を取り調べてももう遅いと思います。

それよりも反乱軍を鎮圧する方策を考える方が先だと思います。」と反対。

鼂錯は書記官らの反対に合い、彼の取り調べを保留にします。

彼が次の方策を考えている間、袁盎に親しい人が、

鼂錯の言葉を彼に告げます。

 

呉楚の反乱を鎮圧するための策を進言

 

 

袁盎は景帝からの招聘を受けて、宮殿に向かいます。

彼は宮殿で景帝に拝謁すると「お人払いをお願いいたします。」と伝えます。

すると景帝は家臣らを退出させ、鼂錯と景帝の三人になります。

袁盎は「余人を交えず、陛下にだけ話したいと思います」と再度懇願。

すると景帝は「下がれ、鼂錯。」と命じ彼を下がらせます。

景帝と二人きりになった袁盎は「反乱軍側が出した書簡には、『賊臣鼂錯が勝手に

諸侯の罪をでっち上げ、所領を削減している』と書いております。

呉・楚の反乱軍はこの所業を反乱の名目にして、

首都に向かって軍勢を進ませております。

されば鼂錯を処刑し、呉・楚七国に使者を出し、彼らの罪を許して、

所領を返還すれば、すぐに反乱は鎮圧されることでしょう。」と進言します。

景帝はこの進言を受け入れ、鼂錯を処断。

袁盎を式部長官に任命し、再び漢の朝廷に仕えます。

その後彼は呉・楚の反乱軍の大将である劉濞(りゅうひ)の元へ向かいます。

 

呉王劉濞に捕えられる

 

 

袁盎は呉王である劉濞の元に着くと鼂錯(ちょうそ)を殺した事を報告し、

反乱を止めるように伝えます。

しかし彼は袁盎の進言を無視。

劉濞は袁盎に「我らの仲間になって新たな漢帝国を作ろうではないか」と誘います。

袁盎はこの申し出をきっぱりと断ります。

すると彼は劉濞に捕縛され、監禁されてしまいます。

 

かつての部下に救出される

 

 

劉濞は袁盎を監禁し、彼をいずれ殺す為、五百人の兵をつけて監禁している

部屋を警備させます。

警備隊長の副官は袁盎が呉王の宰相として赴任してきた時、

彼の部下として働いていた人物でした。

彼は自前で酒を買い、隊長や五百人の兵士全員に酒を飲ませます。

隊長や五百人の兵は酒を飲んで酔っ払い、全員寝てしまいます。

その後副官は袁盎の元へ向かい「袁盎様。早くお逃げください。」と伝えます。

袁盎は「あなたは一体誰だ。」と尋ねます。

すると副官は「以前あなたの部下として働いていた者です。」と伝えます。

袁盎は彼に感謝するが「あなたやあなたの親族に罪を及ばせるわけにはいかない」と

逃げない意思を伝えます。

しかし副官は「大丈夫です。私もすぐに逃げますから、親に迷惑はかかりません。

さぁ早く。」と言い彼を部屋から引っ張り出し、袁盎を城門まで連れて行き、

分かれて逃走します。

袁盎は副官と別れ、そのまま歩く事三十キロ、

彼は周勃(しゅうぼつ)の一族で、漢軍の大将である

周亜夫(しゅうあふ)の軍勢に保護される事になります。

 

三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

国家のために文帝や景帝に厳しい口調で諫言を行い続けて袁盎。

彼はただ国の為に諫言を行いますが、次第に皇帝から疎まれる事になり、

各地の丞相を転々とすることになります。

しかし組織には必ずこのような人が居る方が良いと思います。

組織のトップに注意できる人がいないとその人が誤った道に進んだ時、

取り返しのつかない事が多いからです。

しかし諫言を行う者にとっては非常に精神的につらい役目であり、

トップから疎まれて左遷される可能性もあります。

この諫言を行う者を重宝し、しっかりとその意見を聞く者こそ

真のリーダーであり、漢の文帝・景帝は素晴らしいリーダーであったと思うと同時に、

左遷させられても皇帝に諫言を行い続けた袁盎は、素晴らしい臣下であると

思います。

「今回の前漢のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまた初めての三国志でお会いしましょう。

それじゃまたにゃ~。」

 

次回記事:袁盎(えんおう)とはどんな人?国家の為にあえて諫言を発し続けた政治家 Part.2

 

 

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黒田廉(くろだれん)

黒田廉(くろだれん)

三國志が大好きです。オススメのマンガは曹操を描いた蒼天航路がオススメです。三國志の小説のオススメは宮城谷昌光氏が書いた三國志です。好きな食べ物はマグロ、ぶり、アジが大好きな猫です。

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