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宮本武蔵や土方歳三のような剣豪が三国志時代にも存在した?後漢末期の流派も紹介!

2016年9月5日


 

近藤勇と関羽

 

私達は剣豪というと、どうしても宮本武蔵や土方歳三のような、

日本の剣豪を連想してしまいます。

しかし、剣が中国から伝来した事を考えると、中国にだって剣豪がいた筈です。

そこで、三国志の時代に存在した中国の剣豪について調べてみました。

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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春秋戦国から三国時代までは、撃剣は盛んだった・・

撃剣を使う曹丕

 

史記や、三国志を読んでいると、そこに撃剣の使い手の話が出てきます。

三国志の時代には、曹丕(そうひ)曹植(そうしょく)徐庶(じょしょ)

魯粛(ろしゅく)、史記の時代には荊軻(けいか)項羽(こうう)

撃剣を学んで名手であったと記録されています。

 

この撃剣は短剣を投げる技術のような解説がされます。

それも間違いではないようですが、数ある技術の一つであるようです。

当時の中国の剣は日本の刀と違い、そこまで重くないので、

投げて突き刺すという択肢も実際にあったのではないかと思います。

 

実際に荊軻も、始皇帝を暗殺しようとして失敗し、匕首(あいくち)を

始皇帝に投げて刺そうとしますが果たせずして殺されています。

これも撃剣の技術の応用の一つではないかと考えられます。

 

後漢末期、剣術の流派はたくさんあった

陸遜 剣と刀

 

曹丕が編纂した典論の自叙によると、曹丕が剣術を学ぼうとした頃、

中国各地には、様々な撃剣の流派が存在していたようです。

曹丕は、その中から結局、都洛陽の剣術家に弟子入りしたようです。

 

当時、剣は腰に提げられる便利さから役人全般が持つ武器になっていました。

持つとなれば、当然、ただ腰に提げているだけでは済まないので

撃剣を教える師匠について剣を勉強したのでしょう。

 

役人だけでも全土では、2~30万人いたようですから、

それらを吸収するだけの流派が生まれても不思議はありません。

案外、日本の大道場のように、門弟数千人というような、

剣術道場が当時は存在したかもしれません。

 

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三国志の時代の剣豪には、どんな人がいた?

朝まで三国志 kawauso

 

三国志の時代の人々が撃剣を嗜んだ事は、書きましたが、

では、そんな撃剣の達人、剣豪はいたのでしょうか?

 

・王越(おうえつ)・・・これも、曹丕の編纂した典論、

自叙からの引用になりますが、曹丕の見解によると、

後漢の桓帝・霊帝の時代の虎賁(近衛兵)だった人のようです。

詳しい武勇伝は伝わっていません。

 

・史阿(しあ)・・・・王越から撃剣の技術の全てを受け継いだ

人物で、彼は曹丕の撃剣の師になっています。

 

・袁敏(えんびん)・・・曹丕は袁敏という人物にも学んでいますが、

彼は、予期できない速さで一剣を操り、双剣の相手を倒すという

腕前だったようで、曹丕はこれを目の当たりにし、自分では勝てないと落胆して、

以後、剣術が出来ると自慢する事が無くなったようです。

 

当時の撃剣の戦い方は、どういうモノ?

曹丕

 

正確な記述がないので、リアルには説明できないのですが、

曹丕が酔っ払ってサトウキビを剣代わりに家臣と対戦した記述を読むと、

相手の肘を3回打ったというような記述が出てきます。

また、相手の突きを足さばきでかわして面を打ったという事もあるので

どうやら、今のフェンシングに近い、突く事を基本とした

戦闘スタイルだった事が想像できます。

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

一時期は、多くの流派が誕生する程に、中国で繁栄した撃剣が

どうして今では、振るわないのでしょうか?

具体的な理由は分らないのですが、そこには、文官優位、

武官劣位という中国の伝統も関係しているのかも知れません。

剣術の腕を磨く事が、そのまま出世には繋がらない事が、

次第に剣術を趣味の演舞に押し込めてゆき、実戦的な技術ではなくなる

という事に繋がっていったという事かも知れませんね。

 

本日も三国志の話題をご馳走様・・

 

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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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