私達は剣豪というと、どうしても宮本武蔵や土方歳三のような、
日本の剣豪を連想してしまいます。
しかし、剣が中国から伝来した事を考えると、中国にだって剣豪がいた筈です。
そこで、三国志の時代に存在した中国の剣豪について調べてみました。
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この記事の目次
春秋戦国から三国時代までは、撃剣は盛んだった・・
史記や、三国志を読んでいると、そこに撃剣の使い手の話が出てきます。
三国志の時代には、曹丕(そうひ)、曹植(そうしょく)、徐庶(じょしょ)や
魯粛(ろしゅく)、史記の時代には荊軻(けいか)や項羽(こうう)が
撃剣を学んで名手であったと記録されています。
この撃剣は短剣を投げる技術のような解説がされます。
それも間違いではないようですが、数ある技術の一つであるようです。
当時の中国の剣は日本の刀と違い、そこまで重くないので、
投げて突き刺すという択肢も実際にあったのではないかと思います。
実際に荊軻も、始皇帝を暗殺しようとして失敗し、匕首(あいくち)を
始皇帝に投げて刺そうとしますが果たせずして殺されています。
これも撃剣の技術の応用の一つではないかと考えられます。
後漢末期、剣術の流派はたくさんあった
曹丕が編纂した典論の自叙によると、曹丕が剣術を学ぼうとした頃、
中国各地には、様々な撃剣の流派が存在していたようです。
曹丕は、その中から結局、都洛陽の剣術家に弟子入りしたようです。
当時、剣は腰に提げられる便利さから役人全般が持つ武器になっていました。
持つとなれば、当然、ただ腰に提げているだけでは済まないので
撃剣を教える師匠について剣を勉強したのでしょう。
役人だけでも全土では、2~30万人いたようですから、
それらを吸収するだけの流派が生まれても不思議はありません。
案外、日本の大道場のように、門弟数千人というような、
剣術道場が当時は存在したかもしれません。
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三国志の時代の剣豪には、どんな人がいた?
三国志の時代の人々が撃剣を嗜んだ事は、書きましたが、
では、そんな撃剣の達人、剣豪はいたのでしょうか?
・王越(おうえつ)・・・これも、曹丕の編纂した典論、
自叙からの引用になりますが、曹丕の見解によると、
後漢の桓帝・霊帝の時代の虎賁(近衛兵)だった人のようです。
詳しい武勇伝は伝わっていません。
・史阿(しあ)・・・・王越から撃剣の技術の全てを受け継いだ
人物で、彼は曹丕の撃剣の師になっています。
・袁敏(えんびん)・・・曹丕は袁敏という人物にも学んでいますが、
彼は、予期できない速さで一剣を操り、双剣の相手を倒すという
腕前だったようで、曹丕はこれを目の当たりにし、自分では勝てないと落胆して、
以後、剣術が出来ると自慢する事が無くなったようです。
当時の撃剣の戦い方は、どういうモノ?
正確な記述がないので、リアルには説明できないのですが、
曹丕が酔っ払ってサトウキビを剣代わりに家臣と対戦した記述を読むと、
相手の肘を3回打ったというような記述が出てきます。
また、相手の突きを足さばきでかわして面を打ったという事もあるので
どうやら、今のフェンシングに近い、突く事を基本とした
戦闘スタイルだった事が想像できます。
三国志ライターkawausoの独り言
一時期は、多くの流派が誕生する程に、中国で繁栄した撃剣が
どうして今では、振るわないのでしょうか?
具体的な理由は分らないのですが、そこには、文官優位、
武官劣位という中国の伝統も関係しているのかも知れません。
剣術の腕を磨く事が、そのまま出世には繋がらない事が、
次第に剣術を趣味の演舞に押し込めてゆき、実戦的な技術ではなくなる
という事に繋がっていったという事かも知れませんね。
本日も三国志の話題をご馳走様・・
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—古代中国の暮らしぶりがよくわかる—