この世界でもっとも血みどろな争いは身内同士の争いでこそ発生します。
お互いが相手を知っているだけに可愛さ余って憎さ100倍、
その確執は手が付けられず修復不可能になる事も珍しくありません。
ましてや、そこに権力が絡むと相手を破滅に追い込む事さえ辞しません。
そこで、はじさんでは、日中対決として、曹丕(そうひ)&曹植(そうしょく)
そして、後白河天皇&崇徳(すとく)天皇のケースを比較していきます。
この記事の目次
父に疎まれた崇徳天皇と、ボンクラと言われた後白河天皇
崇徳天皇は、第74代天皇の鳥羽(とば)天皇の第一皇子として誕生しました。
4歳の時に天皇になりますが、幼いので実権は父、鳥羽上皇が
そのまま掌握して上皇として政治を行います。
これを院政(いんせい)といい、藤原氏が摂関家として
天皇にくっついていた時代、表向きは幼い天皇を立てて、
自分は上皇として藤原氏を遠ざけ事実上政治を支配するのに
都合がいい政治体制だったのです。
しかし、父である鳥羽上皇は、美福門院得子(みふくもんいん・なりこ)
という側室を迎えて寵愛し、次第に天皇である崇徳天皇を
疎ましく思うようになります。
一方の、後白河天皇は、鳥羽上皇の第四皇子として生まれます。
母親も兄、崇徳天皇と同じ同母弟ですが、若い頃から奇行で知られ
特に今様(いまよう)という当時の民謡、流行歌に熱中し
生涯に三度喉を潰しながら血を吐いても歌い続けるという有様でした。
今なら一人24時間カラオケで歌い続けるというタイプで、
これという素養もなくボンクラという評価で父、鳥羽上皇も、
「こいつはダメだ」と匙を投げていました。
一方の崇徳天皇は、和歌に巧みであり小倉百人一首にも句が
納められている当時有名な歌人でした。
側室の卞夫人の子として生まれた曹丕と曹植
曹丕と曹植は、曹操(そうそう)の側室の卞(べん)夫人の子として
生まれた同母兄弟です。
彼等が生まれた頃、正妻は丁(てい)夫人であり二人は
曹操の後を継ぐ可能性が薄く、取り巻きの派閥もありませんでした。
曹操は、正妻の息子も側室の息子も、夫人の連れ子も平等に愛したので、
これらの子供達の間に確執はなく、曹丕と曹植の兄弟仲も良好でした。
曹丕は曹操について若くして従軍して武術にも文学にも優れ、
曹植も若くして従軍しますが、特に、漢詩において非凡な才能を発揮します。
二人は優劣つけがたい出来る兄弟でしたが、ここで運命が変わります。
曹操が苑で鄒(すうし)氏という未亡人に夢中になり、その隙を突かれて
張繍(ちょうしゅう)に背かれ嫡男の曹昂(そうこう)が戦死したのです。
曹昂の養母だった丁夫人は、曹操を恨み、実家に帰ってしまいます。
二人の関係は修復できず、曹操は丁夫人と離婚して卞夫人が正妻になります。
これにより、曹丕と曹植は曹操の後継者になる確率が上昇し、
次第に取り巻きに囲まれ、兄弟の絆にも溝が生まれるのです。
天皇でありながら何の権力もない崇徳天皇と父との確執
崇徳天皇は成人して、太子が生まれても鳥羽上皇は権力を手放しません。
それどころか、美福門院得子が産んだ体仁(なりひと)親王を
次の天皇にしようと崇徳天皇に譲位を迫りました。
もちろん、崇徳天皇は拒否しますが、鳥羽上皇は
「体仁は、あなたの養子の扱いだから体仁が即位すれば、
あなたが上皇として権力を振るう事が出来る」と持ちかけ承知させます。
しかし、それは罠で、皇太子として即位した筈の体仁親王の地位は
皇太弟になっていました。
つまり、崇徳天皇とは兄弟という扱いで親子ではないのです。
親子でなければ、後見人として崇徳上皇が政治に口を出す事は出来ず、
崇徳上皇は何の権限もないまま、天皇の地位を追われます。
体仁天皇は、僅か2歳で76代近衛(このえ)天皇として即位し、
その実権は変わらず鳥羽上皇に握られ続けました。
実父に騙された崇徳上皇は、以来、父を激しく恨む事になります。
曹操の後継者の筈が、中々指名されない曹丕・・・
母が正妻に格上げされた事で、長男である曹丕は曹操の後継者の
有力候補になりますが、曹操は、まだ後継者を決めかねていました。
特に、環(かん)夫人の子の曹沖(そうちゅう)は幼い頃から聡明であり
曹操は溺愛し、一時は後継者として考えていたようです。
しかし、曹沖は208年に12歳で病死してしまいます。
その時、曹操は悲しみから、腹立ち紛れに曹丕に対して
「倉舒(曹沖)の死はわしにとっては大きな悲しみだが、
お前にとっては喜びだ。これでお前がわしの後継者になれるのだからな!」
と皮肉を言ったと言われています。
気が昂ぶっていたとは言え、これは曹操が曹丕より曹沖を
大事にしていた証拠であり曹丕の心に深い傷を残しました。
二度目の父の裏切り、ボンクラ弟が天皇になり権力を失う崇徳上皇
騙し討ちにより、近衛天皇の即位を許した崇徳上皇ですが、
父である鳥羽上皇は関係改善を求めて、崇徳上皇の子の、
重仁(しげひと)親王を美福門院の養子として迎えました。
これにより、近衛天皇が跡継ぎを残さずに崩御(ほうぎょ:天皇が死ぬ事)
した場合には、重仁親王が即位し崇徳上皇の権力が回復する可能性が
残る事になりました。
近衛天皇は幼い頃から病弱であり、西暦1155年、17歳で跡継ぎ無く
崩御する事になります。これで、念願の上皇として院政を敷く事が出来ると喜ぶ
崇徳上皇ですが、予想に反して、皇位は美福門院のもう一人の養子、
守仁(もりひと)親王に移ってしまいます。
しかし、守仁親王には、父の雅仁(まさひと)親王がいて、父を差し置いて、
即位とはいかがなものか?という議論が出たので、雅仁親王を暫定的に
即位させて、その後に守仁親王に譲位するという事で決定します。
この雅仁親王こそ、今様狂いでボンクラと言われた、
崇徳上皇の弟、後白河天皇の事でした。
これにより、皇位は後白河天皇、そして守仁親王に継がれる事になり
崇徳上皇と重仁親王が権力を握る可能性はゼロになりました。
この事件は、後の保元の乱という天皇と上皇の戦争の発端になります。
血を分けた弟曹植との後継者争い
曹沖が死んだ後、後継者として注目され始めたのが弟の曹植でした。
曹植は自由奔放で無邪気な性格、そして詩人であった曹操の才能を、
もっとも良く継いでいる存在でした。
曹操は曹植の才能を愛したので、魏の郡臣の中には曹植に接近して
曹丕と敵対する派閥が出来ていきます。
元々は仲が良かった兄弟には、こうして溝が出来ていきます。
もっとも実際には、曹植には後継者になるつもりはなく、
それ故に自由奔放で曹操の怒りを買う行動もしてしまった
という事も考えられます。
「どうせ跡継ぎには、なれないんだから、
精々、恵まれた身分を利用して羽目を外して楽しもう」
そういう気楽な部分は、後白河天皇にも共通しています。
ただ、曹植を担ぐ派閥は曹丕を敵視しており、曹丕は、
そのような派閥に担がれる曹植を放置できないと考えた事は、
想像に難くありません。
西暦211年、曹丕は副丞相として曹操の補佐となり、
さらに217年には、魏王になった曹操から太子に指名され、
事実上、魏王朝の後継者になりました。
こうして、自身の考えとは無関係に後継者争いに敗れた曹植には
過酷な運命が待ちうける事になります。
権力の頂点を目指し、崇徳上皇VS後白河天皇の戦争が勃発!
1156年、二度までも崇徳上皇を裏切った父、鳥羽上皇が崩御します。
崇徳上皇は、弔問に駆け付けますが、面会を拒否され憤慨したそうです。
その頃、都では、崇徳上皇と悪左府(あくさふ)、藤原頼長(ふじわらよりなが)が
兵を挙げて、後白河天皇を攻撃するという噂がしきりに流れました。
どうやら、それは崇徳上皇を追いつめる為に、後白河天皇方の、
藤原忠通(ただみち)、美福門院が意図的に流したデマのようです。
※悪左府と呼ばれた変人左大臣、藤原頼長とはこんな奴だ↓
しかし、ボンクラの後白河天皇は、自身の権力維持に関しては、
優れた能力を発揮します、節操なく、美福門院、藤原忠通と結託し
兄に対して先制攻撃を仕掛け、藤原摂関家の邸宅を没収しました。
追い込まれた崇徳上皇は、やむを得ず左大臣、藤原頼長と協力し、
源為義(みなもとのためよし)、平家弘(たいらのいえひろ)、
平忠正(たいらのただまさ)などの武家勢力を集め、白川北殿に集まりますが、
元々嵌められた戦いであり、戦意に乏しい状態でした。
崇徳上皇に味方した、平安時代のガンダムである
リアル戦国無双、源為朝(ためとも)が、
「戦は夜襲に限る、そうでなくても、こっちは少ない、、
奇計を使って勝つしかない」
と主張したものを、悪左府、藤原頼長は、
「武士はそういう野蛮人だから困る、
公家として、そんな卑怯な事は出来ない」
という、どうでもいい理由で却下してしまいます。
それから間もなく、後白河天皇方の源義朝(よしとも)や
平清盛(きよもり)達が、逆に白川北殿に夜襲を掛けたので、
崇徳上皇方は、ひとたまりもなく敗れ去ってしまいました。
兄と甥による厳しい迫害で憤死した曹植・・
西暦220年、曹丕が後漢を滅ぼし、魏を建国して初代皇帝になると
彼は自身に敵対してきた人間への報復を開始、曹植の側近であり、
反曹丕の立場だった丁儀・丁廙(ていい)を処刑して、
その一族の男子をことごとく殺戮してしまいます。
曹植は殺される事だけは免れたものの、常に厳しい監視にさらされ、
臨菑(りんし)侯から221年には安郷(あんごう)侯に転封、
同年の内に鄄城(けんじょう)侯に再転封、223年には、雍丘(ようきゅう)王、
以後、浚儀(しゅんぎ)王、再び雍丘王、東阿(とうあ)王、陳(ちん)王と、
曹植が232年に死去するまで、各地を転々とさせられます。
これは、曹植が土地の豪族と結託して反乱を起こさない為の予防措置でした。
絶えず、国替えが行われる中、曹植は頻繁に手紙を出し、自分を政治に
関わらせてほしいと要望しますが、曹丕も後を継いだ曹叡(そうえい)も
曹植の要望を却下します。
230年には、唯一の心の拠り所だった生母卞夫人も死去、
曹植は肉親の情に飢えていたのか、親族間の交流を許してほしいと
明帝、曹叡に要請するも、親族間で謀反の計画を起こされては
たまらないと考えた曹叡は、この要請も却下します。
漢詩の才能とは裏腹に、戦争に参画して武勇を披露し民を慈しみ
善政を行う事こそ自分の本望と信じた曹植でしたが、
西暦220年以降は後継者争いに敗れた駕籠の鳥として人生を送り、
12年後、酒に溺れた寂しい生涯を閉じました、享年40歳。
讃岐に流され、怨恨から大魔王になった?崇徳上皇の悲しい最後
保元の乱に敗れた崇徳上皇は逃亡しますが、逃げ切れない事を悟り、
自首して捕らわれの身となり、讃岐国(さぬき:香川県)に流罪になります。
同行を許されたのは、寵妃の兵衛佐局(ひょうえ・すけのつぼね)と
僅かな女房(使用人の女性)で寂しく窮乏した流人生活でした。
しかし、都の喧騒と違い、素朴な讃岐での流人生活は、地元の人々との
交流もあり元々、繊細で文人肌の崇徳天皇の心を慰めるものでした。
この地で深く仏教に傾倒した崇徳上皇は、すべてを運命と受け入れ、
世を騒がせた自分への反省と戦没者への供養の為に、五部大乗経の写経をし
それを京都の五か所の寺に納めて欲しいと弟の後白河上皇に贈ります。
ところが、後白河上皇は、兄の崇徳上皇を信じられず、
「何か呪いでも込めてあるのではないか?気味が悪い」として、
心を込めて崇徳上皇が書いた五部大乗経を送り返してしまうのです。
送り返された写経を見て、崇徳上皇は実の弟にここまで拒絶されて
いる事を哀しみ、そしてそれは恐るべき怨念に変化します。
崇徳上皇は舌を噛み切り、その血で五部大乗経に、、
「朕は、日本国の大魔縁となり天皇を民とし民を天皇とす!
この写経は魔道への功徳となさん」
と書き込むと、爪や髪を切らずに伸ばし、一心不乱に皇室を呪詛する
言葉を唱え続け、遂に姿は烏天狗になって飛び去ったと言います。
ですが、これは保元物語の逸話であり、吾妻鏡(あずまかがみ)には、
讃岐での侘びしい生活で悲嘆にくれた上皇が都恋しさに、次第に体調を
崩していったと書かれても後白河天皇や、都の人々を恨むような言葉は無かった
と書かれているようです。
崇徳上皇は、讃岐でも一男一女をもうけ、四国では守り神として
今でも信仰の対象になっています。
和歌を愛し、繊細な精神の持ち主だった崇徳上皇は、時代の波に抗えず
西暦1164年、その人生を不遇の間に終えてしまいます、45歳でした。
三国志ライターkawausoの独り言
千年近い隔たりがある、曹植と曹丕、崇徳天皇と後白河天皇の争いですが、
二つを並べてみると共通点が多いような気がします。
最初は父との確執、次いでは兄弟の確執、実際には当人同士は、
それほどに仲が悪くなくても、次第に派閥が出来、お互いに溝を造ってしまう点
権力の座というのは、肉親の情を狂わさずにはおかないようですね。
本日も三国志の話題をご馳走様です。
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