【蜀の滅亡へのカウントダウン】こうして蜀の国は滅びへ至った

2016年9月22日


監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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防衛態勢の再編が災いを呼ぶことに…

 

劉禅

 

姜維(きょうい)は戦うことが大好きで、幾度も繰り返し北伐を行っておりましたが、

さすがに連年の北伐を行っていたことで、国力が低下している事を知ります。

そのため彼は5年間北伐を止め、蜀の国力が回復するまでの間、

魏が蜀に侵入してきた場合の守備の再編成を命じます。

彼は漢中の防備が適切ではない事に気付き、新たな防衛態勢を進言します。

姜維が進言した防衛態勢は劉禅によって許可される事になりますが、

この防衛態勢を再編が後に大いなる災いを呼ぶことになります。

 

孔明の息子が国力回復に奮闘する

孔明

 

こうして姜維は新たな防衛態勢の構築に励んでいる間に、

孔明の息子である諸葛噡(しょかつせん)や董蕨(とうけつ)らが国政を担い、

一生懸命蜀の国力回復の為に奮闘します。

二人の頑張りによって、蜀の国力はある程度回復の兆しを見せます。

姜維は二人の頑張りによって国力の回復がある程度見込まれるようになると、

北伐を再開すると宣言します。

 

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北伐再開

祁山、街亭02

 

姜維は防衛態勢の再構築が終了し、蜀の国力が回復の兆し見せ始めると、

再び北伐を行います。

彼は軍勢を率いて、魏の軍事拠点である洮陽(とうよう)を攻撃目標に選定し、

進軍を行っていきます。

しかし洮陽の手前で姜維を待ち構えていた鄧艾軍に敗北してしまいます。

こうして彼は5年ぶりに再会した北伐は失敗に終わる事になります

 

【蜀の滅びへのカウントダウン3】蜀討伐軍が出陣

鍾会

 

司馬昭(しばしょう)は、以前から鄧艾に兵を授けて、蜀軍を打ち払わせておりました。

そして洮陽の戦いで姜維軍を打ち払った報告を受け、側近である鍾会(しょうかい)

「蜀軍は毎年連続して魏へ攻撃を仕掛けてきており、国力は相当疲弊しているはずだ。

また蜀を守っている兵士達もさほど多くはないと思うのだがどうだろう」と相談。

鍾会は司馬昭の言葉を聞くと大いに頷き、

「今こそ蜀を滅ぼすチャンスであると考えます。」と進言します。

司馬昭は鍾会の進言を聞き「そうか。君もそう思うか。

では君に蜀討伐の総司令官の任を与えるから、蜀を討伐してきてくれ。」と命令を

与えます。

鍾会は司馬昭から蜀討伐軍の総大将の役目を貰うとすぐに出陣します。

彼は鄧艾など多くの武将を従えて、蜀の玄関口である漢中へ向かいます。

 

【蜀の滅びへのカウントダウン2】姜維の通報を劉禅は聞き流す

劉禅

 

姜維は魏軍が大軍を編成して、蜀に侵攻する準備を行っているとの情報を手に入れます。

彼は魏軍を迎撃するため、劉禅に「魏軍が大軍を編成して、蜀へ攻撃を仕掛けようと

している」と通報します。

この情報を聞いた劉禅は黄晧(こうこう)に相談します。

すると黄晧は劉禅に「私が抱えている巫女達に占わせた所、

姜維の通報は誤りです。魏軍が今蜀に向けて進撃する可能性はほとんどありません。」と

占いで出た結果を報告します。

劉禅は黄晧の占いの結果を信じ、蜀の国内に駐屯している諸将に、

魏軍を迎撃する準備の命令を出すことをしませんでした。

 

姜維剣閣に籠り奮闘

ラストサムライ羅憲

 

姜維は魏軍が長安から蜀討伐の軍勢を出陣させたと報告を受けると、

自らが考えた防衛態勢の通りに魏軍を防ごうとさせますが、

この防衛態勢は鍾会らを阻むことができずに、

あえなく漢城と楽城は陥落してしまいます。

このため姜維は魏軍の攻撃を防ぐことに適している剣閣(けんかく)に軍勢を駐屯させて、

魏軍迎撃の陣を敷きます。

その後成都から廖化や張翼らが援軍に来た事で蜀軍の士気は高まります。

鍾会は蜀軍が籠る剣閣に猛攻をかけますが、攻めにくい事と蜀軍の士気の高さによって

幾度も敗北することになります。

こうして姜維が剣閣で奮戦している間に、予想できない出来事が起きてしまいます。

 

別動隊を率いて蜀の内部に侵入を果たす

祁山、街亭01

 

鄧艾は剣閣攻撃が失敗に終わっている状態を見て、

このままでは蜀討伐が失敗に終わるのではないかと危惧を抱きます。

そこで鍾会に「このまま全軍で剣閣に攻撃をしかけて続けても、

剣閣を陥落させるのは難しいでしょう。

そのため私は別動隊を率いて蜀の内部に侵入して攻撃を仕掛けようと思います。」と

進言します。

鍾会は鄧艾の献策を受け入れて、彼に数万の兵を与えることにします。

鄧艾はこうして別動隊を率いて、

人が歩くことができないような獣道をいくつも踏破し、

蜀の内部へ侵攻することに成功します。

 

【蜀滅亡へのカウントダウン1】蜀の内部へ辿りついた魏軍によって蜀の城が陥落する

劉禅

 

蜀の内部に辿りついた鄧艾は、蜀の各地の城へ攻撃を仕掛けていきます。

蜀の各地の城は、劉禅が迎撃態勢を命令しない為、ほとんど防備を整えておらず、

次々に陥落していきます。

この状況を知った諸葛噡は息子の諸葛尚(しょかつしょう)と共に出陣し、

鄧艾の軍勢に攻撃を仕掛けますが、敗北してしまいます。

諸葛噡は鄧艾の軍勢に敗北すると、成都城防衛の要である綿竹関(めんちくかん)に

後退して態勢を立て直し、迎撃態勢を取ります。

鄧艾は諸葛噡に降伏の文章を送りますが、彼は拒否し、魏軍との決戦を行います。

しかし蜀軍の兵士は少ないこともあり、諸葛親子は奮戦しますが、

鄧艾の軍勢に敗北し討ち取られてしまいます。

こうして成都城防衛の要である綿竹関を攻略すると、成都へ向けて進軍を開始します。

 

【蜀の滅亡へのカウントダウン0】劉禅は一戦もせずに降伏し、蜀は滅亡を迎える

劉禅

 

劉禅は諸葛噡と諸葛尚が討ち死にしたとの報告を聞くと、成都城にいる文官を集めて、

会議を開きます。

会議の内容は魏軍に降伏をするか、それとも徹底抗戦を行うかの会議です。

文官達は劉禅に「まだ戦は決まっておりません。ここで降伏するなどありえません。

成都城を一度捨てて、南方へ向かうか、それとも永安城へ向かい、

呉へ協力を仰げばまだまだ戦は戦えるでしょう。」と進言します。

劉禅はこの進言を聞くと大いに迷いますが、一人の臣下が立ち上がり劉禅に進言を

行います。

この臣は陳寿(ちんじゅ)の師匠として知られる譙周(しょうしゅう)です。

彼は「陛下。天下は魏の物になりつつあります。

そのため、呉へ臣従して、呉が滅んだ後に再び魏に降伏するよりは、

最初から魏に降伏を申し入れた方が屈辱に耐え忍ぶのは一度で済みます。

また南方へ逃れて抵抗を示す場合ですが、

現在南方には不安要素がなく移動して抵抗する案としては最適のように思われますが、

陛下が南方へ向かった場合、蜀の国に何らかの異変が生じたのであろうと、

南方の豪族達は勘ぐり、反乱を起こすかもしれません。

魏と反乱軍の両方と戦う戦力は今の蜀にはありません。

そのため南方に移動するような事をせず、魏へ降伏することが良策であると考えます。」

と進言を行います。

劉禅は譙周の進言を聞き、大いに迷いますが結局降伏を決意。

劉禅は皇帝の印綬などを鄧艾に引き渡した後、一人で鄧艾軍の元を訪れ、

降伏する旨を伝えます。

こうして蜀は建国から43年後に滅びることになります。

 

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三国志ライター黒田廉の独り言

黒田廉

 

蜀を建国した劉備。劉禅を盛り立てて蜀の繁栄に尽力した孔明

そして孔明死後から蜀の滅亡までを長く書き述べてきましたが紹介させて、

頂きました。

蜀は劉備によって建国され、孔明によって蜀の国は北伐を行いながらも、

栄えていく事になります。

孔明死後も蒋琬・費禕が蜀の国の安定に尽力します。

しかし蒋琬・費禕の死後、陳祗が国政を担当することになりますが、

宦官である黄晧らを政治に参加させたことや姜維の連年の北伐により、

政治は乱れ、国力は低下していった事が蜀滅亡へのきっかけになってしまいます。

北伐を控え、陳祗に国政を担わせなければ、

蜀の滅亡はもう少し伸ばすことができたかもしれません。

「今回の三国志のお話はこれでおしまいにゃ。

次回もまたはじさんでお会いしましょう

それじゃまたにゃ~」

 

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