光武帝・劉秀(りゅうしゅう)。
彼の評価はウェブ上で高い評価を与えられており、
同じ劉姓を持つ三国志一の人気者・劉備(りゅうび)とは比較にならないでしょう。
しかしなぜここまで劉秀の評価が高いのでしょうか。
それはある戦いから始まっていると思います。
今回は劉秀挙兵時から彼が大活躍した昆陽の戦いまでをご紹介しましょう。
この記事の目次
兄と共に王莽打倒の兵を挙げる
王莽(おうもう)は漢帝国を奪って新たな帝国を打ち立てます。
その帝国の名を「新」といいます。
彼は周の時代の制度が一番いい制度だと思っており、
漢帝国の制度を全て刷新して、周の時代に則って新たな制度を制定。
この前時代的な制度は現実に即さなかった事が原因で、
民衆に受け入れられず国内全土で王莽打倒の反乱が勃発することになります。
劉秀の兄・劉縯(りゅうえん)も王莽打倒の為に、地元である舂陵(しゅんりょう)で挙兵。
劉秀は兄が王莽打倒に向けて挙兵したことを聞くと、自らも兄の反乱に参加します。
この時彼は馬を買うお金がなくて、牛に乗って反乱軍に参加。
農民豪族連合軍を結成
劉秀と劉縯兄弟は各地の官軍を打ち破って名を挙げていきます。
彼らが奮闘している間に「新」へ反乱を起こしていた最大勢力の一つである
緑林軍(りょくりんぐん)が二つに分裂したことを知ります。
この軍勢は二つに分かれ、一方を南陽を中心とした新市軍(しんしぐん)。
もう一方を下江軍といいます。
劉秀兄弟は南陽を中心としている新市軍に合流。
他にも各地から王莽の政権に対して反乱を起こしていた豪族や農民の軍勢が集結したことから、
農民豪族連合軍として生まれ変わることになります。
この連合軍は宛城を攻略するために進軍を開始。
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小さい勝利と大きな敗北
宛城へ向かう途中で官軍と遭遇しますが、劉縯が先陣を率いて官軍を易々と撃破。
官軍に勝利したこの軍勢は再び宛城へ向けて進軍を開始しますが、
小長安と言われる地で官軍に大敗北してしまい、南陽へ向けて一時撤退することになります。
この撤退戦の時に劉縯は一族を官軍の追撃によって亡くしてしまいます。
官軍は農民連合軍を撃破して反乱を鎮圧しようと考え、10万の精鋭を率いて猛追撃を行います。
しかし農民連合軍は官軍の追撃をなんとかかわして、態勢を立て直すことに成功。
官軍は背水の陣を敷いて連合軍を必ず撃破する覚悟を将兵に示します。
劉秀の兄・ 劉縯はこのままでは官軍に敗北する可能性があるかも知れないと感じ、
密かに陣を抜け出してあるところへ向かいます。
緑林軍の片割れ下江軍を吸収して、反撃に転じる
劉縯は下江軍の軍を率いているリーダーである王常(おうじょう)と面会するため、
南陽郡にある村へと向かいます。
この地で下江軍のリーダー王常と面会した劉縯は彼に「私達農民連合軍に合流して、
共に王莽の政権を妥当仕様ではありませんか。」と説得を行います。
王常は自分の軍勢だけでは王莽の政権を打倒できないことを知っていたので、
劉縯の説得に応じて農民連合軍に参加することを表明します。
こうして劉縯の説得によって農民連合軍は下江軍を加えると官軍に対して反撃を開始します。
官軍に大勝利を収める
劉縯は自ら軍勢を率いて対峙している官軍に総攻撃を開始します。
彼は総攻撃を行う前に官軍の食料輸送隊へ攻撃を仕掛けて、壊滅させることに成功。
この事を官軍へ教え、士気の低下を図ります。
官軍は兵糧が農民連合軍によって無くなったことを知ると意気消沈して士気が大幅に低下。
さらに劉縯率いる軍勢と農民連合軍が総攻撃を仕掛けてきた為、官軍は大敗北をしてしまい、
10万の軍勢を率いていた将軍も討ち死にしてしまいます。
その後劉縯は宛城近辺へ向かって進軍を再開し、
宛城の近くに有る育陽に駐屯していた官軍を蹴散らして進んでいきます。
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