133話:公孫淵の反乱と司馬懿の台頭

2016年10月22日


 

公孫淵

 

西暦237年、魏では曹叡(そうえい)が贅沢の限りを尽くした

大土木工事を行っている頃、遼東では、三代に渡り、この地を統治した独立勢力、

公孫淵(こうそんえん)が、呉と魏のパワーバランスの隙を突いて独立し

(えんおう)を自称しました。

これを反逆と見做した曹叡は、重臣の司馬懿(しばい)

歩騎四万を与えて討伐を命じます。

 

前回記事:132話:もうやりたい放題!曹叡の乱心で魏の暗黒時代へ突入

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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三国とは別に、遼東で勢力を奮っていた公孫一族

朝まで三国志 公孫瓚

 

公孫淵と言っても三国志の英雄、公孫瓚(こうそんさん)とは直接の関係はありません。

後漢の末、公孫淵の祖父に当たる公孫度(こうそんど)が遼東太守に任じられたのが

遼東公孫氏の支配が始まりで、周辺の豪族百余りを討伐し、

高句麗(こうくり)や烏桓(うかん)を撃退して、現在の朝鮮半島一帯に

勢力を広げるようになりました。

 

西暦207年、2代目 公孫康(こうそんこう)の時代、

曹操(そうそう)が烏桓討伐で破った、単于(ぜんう:王)の楼班(ろうはん)

袁尚(えんしょう)、袁熈(えんき)の兄弟が遼東の公孫康を頼って

亡命してきた事がありましたが、公孫康は、後の災いを恐れて、

三人を捕えて処刑して首を曹操に送り届けます。

 

曹操

 

曹操は遼東まで討伐する余裕も無い事から、

公孫康の遼東支配を事実上黙認する事になりました。

 

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叔父の公孫恭の時代は、魏に臣従していた

公孫淵

 

公孫淵は、父が死去した頃、まだ幼かったので、

叔父の公孫恭(こうそんきょう)が遼東を支配していました。

公孫恭は、あまり勇敢な人ではなかったようで、

魏に臣従して独自の動きも起こさなかったようです。

 

西暦228年、成人した公孫淵は、叔父を脅迫して、

太守の地位を譲らせました。

実は、公孫淵は次男で兄は叔父の命令で洛陽にいました。

その隙を突いて、公孫淵は遼東の支配者になったのです。

 

魏と呉の間を巧みに泳ぎ回るが、次第に追い込まれる

公孫淵

 

公孫淵は、叔父と違い、中々知恵が回り同時に、

野心がある人であったようです。

当初、公孫淵は曹叡に揚烈(ようれつ)将軍の地位を授けられますが、

これっぽっちの官位と満足せず、次第に呉に接近します。

 

来るべき、魏との戦いで公孫淵の援軍をあてにする孫権(そんけん)は、

重臣、張昭(ちょうしょう)の猛反対を無視して、

西暦233年、公孫淵を燕王に任命しました。

 

しかし、公孫淵は、すぐに心変わりし、呉の使者として来た、

張彌(ちょうや)、許晏(きょあん)、賀達(がたつ)を捕えて

処刑し、首を魏に送りました。

それを知った曹叡は、公孫淵に大司馬(だいしば)

楽浪(らくろう)公の地位を送ります。

 

曹叡、孫権を手玉に取り、まんまと官位を吊り上げた公孫康ですが、

この危ない綱渡りが呉と魏の不信感を招きます。

 

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毌丘倹が曹叡の名で出頭を命じるも公孫淵は拒否し独立

公孫淵

 

幽州の刺史だった毌丘倹(かんきゅうけん)は、

公孫淵の思いあがった態度に危機感を強め曹叡の名で出頭命令を出します。

公孫淵は、これに従わず、兵を起こしたので毌丘倹は迎撃しますが、

戦が上手くない毌丘倹は、これに敗れて敗走しました。

 

「なんだ、魏の将とはこの程度か、、もはや遠慮は無用、

自ら王になり魏を滅ぼしてくれる!」

 

公孫淵は、戦勝に気を良くして燕王を名乗り元号を紹漢(しょうかん)元年としました。

紹漢とは漢を継ぐという意味であり、魏が漢から禅譲して建国した事を

完全に否定した元号です、これは曹叡を怒らせるに充分でした。

 

賈範(かはん)と綸直(りんちょく)という家臣が必死に独立を

思いとどまるように諫言しますが、公孫淵は、聞かずに二人を処刑しました。

 

西暦238年、曹叡、司馬懿に公孫淵討伐を命じる

司馬懿と公孫淵

 

曹叡は、公孫淵の態度に激怒し、司馬懿を討伐軍として派遣します。

完全に調子に乗っている公孫淵は毌丘倹を撃破した遼隧(りょうすい)の地に

塹壕を掘りさらに呉や烏桓に援軍を要請して魏軍を待ち受けますが、

司馬懿は裏をかいて本拠地の襄平に突進しました。

 

頼みの呉の援軍は間にあわず、公孫淵は慌てて籠城するしかなくなり、

司馬懿は歩騎4万で兵糧攻めに打って出ます。

 

和議を結ぼう、公孫淵の提案を蹴った司馬懿の冷たい言葉

公孫淵

公孫淵は、このままでは滅亡しかないと思い王建(おうけん)という人物を

相国に任命して司馬懿と和睦しようとします。

 

しかし、司馬懿は王建がやってくるなり、

これを斬殺して、首を送り返しました。

そして、手紙にこのように書きました。

 

「お前達は、楚と鄭の故事も知らんのか?

鄭の襄公は力一杯抵抗して敗れ、自ら楚の荘王に頭を下げたのだ。

荘王は、その意気に免じて、鄭を滅ぼさずその国を保たせた。

しかるに、この王建とは何だ?相国だと?何の権限ありて

帝の詔を受けたこの司馬仲達に和睦せよ、兵を退けと指図するのだ?

そんな下らない指図に列侯たるワシが応じる道理はない!

 

どうやら、王建は年が寄り耄碌したようだから、

主命を忘れたのだろう、今度使者を送る時は、

若く賢い人間を送って来い!」

 

公孫淵は、震え上がり、今度は、衛演(えいえん)という人物を送り、

「人質を送りますから、和平を結ばせて下さい」と言いました。

 

ですが司馬懿は、衛演も斬首してしまいます。

 

「この舌先三寸の田舎豪族めが、、貴様如きが和睦などと言えた義理か?

最初から降伏できんような風見鶏の人質など無用だ、ここで死ね!」

 

問答無用の司馬懿の死刑宣告でした。

 

司馬懿、見せしめの大虐殺で、遼東公孫氏滅ぶ!

司馬懿と公孫淵

 

力尽きた公孫淵は、とうとう降伏します。

司馬懿は、公孫淵親子ばかりでなく、遼東の成人を7000名も道連れに

斬首し、その首を山のように積み上げて京観(きょうかん)を造りました。

 

司馬懿

 

公孫淵の首は洛陽に送られ、そのとばっちりで、

兄の公孫晃(こうそんこう)も処刑されました。

公孫淵が追放した叔父の公孫恭は救われましたが、

彼は性的不能で子供がなく、ここで遼東公孫氏は滅亡します。

西暦238年の事でした。

 

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三国志ライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

公孫淵討伐では、残忍な一面が強く表れている司馬懿ですが、

一方で、公孫淵の独立に反対した賈範と綸直については、

丁重に埋葬して、その忠義を讃えています。

司馬懿は、ただ残忍だったのではなく、

遠い遼東で、再び反乱が起きないように

徹底した厳しい処分を下していたのでしょう。

 

こうして、魏は遼東を直轄地にし、そこへ卑弥呼(ひみこ)が

使者を送るという運びになっていきます。

 

次回記事:134話:頑固な忠臣、張昭と孫権の対立がシュール

 

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台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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