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この記事の目次
陳寿が書いた郭嘉伝を読んでみる 4
郭嘉は広く軍略に通じていて、曹操も「私の事を全て理解しているのは郭嘉だけだ」と言っていました。郭嘉は遠征から戻った頃から健康を害して病に伏せ、曹操からの見舞いの使者が何度も往復しましたが、やがて亡くなりました。
曹操は悲しむ事、甚だしく、荀攸(じゅんゆう)に言うには、「私の家来は、皆、私の同世代、ただ郭嘉ばかりが若かった、天下を統一した後の事は彼に頼もうと密かに思っていたのに、これも天命というものであろうか」
後に曹操は、荊州征伐から還る折に、巴丘(はきゅう)で疫病に遭遇し、嘆いて言うには、「郭嘉が生きていたら、私をこのような状況にはさせなかったであろう」
郭嘉は素行が悪く、陳羣(ちんぐん)はそれを糾弾しましたが、郭嘉は落ち着き払っていました。曹操は郭嘉を咎めず、同時に同僚の過失も見逃さず咎める陳羣の態度も立派であると賞賛しました。
かなり、長くなりましたが、これが陳寿の記した素の郭嘉伝です。これだけ見ても、確かに優れた軍師なんですが、これ以外に、裴註で加算された、盛りが多く存在しています。
郭嘉をスーパー軍師にしたの傅子の記述を紹介 1
では、陳寿が書いた郭嘉伝には、裴註により、どのような盛りが加えられているのでしょうか?とても長いので、かいつまんで、ポイントだけ紹介します。
① 郭嘉は若くして遠きを量る才がある人だった。漢末に天下が乱れようとしていた時、弱冠なので名前を隠し、密かに英俊とのみ交友して、世俗とは付き合わず、ゆえに同時代の多くの人間は知らず、ただ見識の高い人だけが知っていた。齢、27歳の時に司徒府に召された。
こちらは、傅子からの引用ですが、郭嘉が最初に袁紹に仕えようとしたという客観的な事実が抜けおちています。遥かに先の展望を見る目があった事を強調したいので、最初から曹操の出現を待っていたと言わんばかりです。
②曹操は、私は袁紹を滅ぼそうと思うのだが、勝つ事が出来ようか?と郭嘉に聞いた、すると郭嘉は袁紹が敗れる十の要因と、曹操が勝利する十の要因を挙げて、曹操を励ました。
こちらも傅子からの引用で三国志を題材としたビジネス書には、必ずと言っていいほどに出てくる鉄板ネタです。かいつまんで、幾つか、例を挙げますと・・
1袁紹の儀礼は煩雑だが、曹操の儀礼は自然に任せて理に叶う。
2曹操は献帝を奉じているが袁紹は逆臣の立場である。
3袁紹の政治は緩いだけで賞罰がピシッとしていないが
曹操は賞罰をきっちり行い、メリハリがある。
4袁紹は極端に身内びいきで他所者を信じないが曹操は適材適所で、才能があれば他所者でも重んじる。
5袁紹の陣では、重臣が権勢を争っているが、曹操の陣営では曹操を中心に皆、一つに団結している。というようなモノで、間違ってはいませんが、いずれも後付けでどうとでも言えそうな話です。どちらかと言えば、郭嘉が袁紹の陣容を正確に把握していたと後世に伝えたいが故の装飾ではないでしょうか?
郭嘉をスーパー軍師にした傅子の記述を紹介 2
③ 曹操が呂布を濮陽に追いつめて持久戦になり軍を引き揚げて還ろうと考えると、郭嘉は進言します。
「昔、項羽は七十余戦して未だかつて敗北しなかったのに、一朝にして勢いを失うと身は死して国が亡んだのは、勇気ばかりを恃みにして、謀略が無かったからです、今、呂布は戦うたびに敗れて、気力も使い尽し、内外とも守るべきモノを失っております。呂布の威力は項羽に及ばないのに、負け方はそれ以上です勝ちに乗じてこれを攻めれば、これを捕える事が出来ましょう 」
曹操は、それを聞いて善しと言いました。
呂布が濮野に籠った時に諸将が引き上げるように進言するのを郭嘉が制して、断固、粉砕すべしと言ったのは正史にも見えます。しかし、項羽がどうのという引き合いは出していません。これは、元々の功積に箔をつけるような記述です。もしかしたら本当かも知れませんが、人伝いに郭嘉の功積が、伝わる間に儒者お得意の昔の故事を引く癖が出て付け足されたそういう話ではないかと思います。
郭嘉をスーパー軍師にした傅子の記述を紹介 3
曹操が速やかに劉備を討伐せんとした時、諸臣は、劉備(りゅうび)を討つ間に袁紹が背後を突いたらどうしますと反対した。その経緯は武帝紀に詳しい、曹操は思い悩んで郭嘉に相談すると、
郭嘉は・・・
「袁紹は動きが鈍いし疑り深いので挟撃される恐れはありません。また劉備は、まだ独立したばかりで人心を得ていないので、今、攻めれば、これを必ず撃破できるでしょう」
曹操は善しと言って、先に劉備を攻めて打ち破った、劉備は、袁紹の下へと逃げたが、郭嘉の言う通り袁紹は動かなかった。
一見、もっともですが、これには裴松之が反論しています。武帝紀を調べると、袁紹は疑り深くて動きが鈍く、劉備は独立したばかりで人心を得ていないので、打ち破るのは容易いと言ったのは曹操で、郭嘉ではないのです。
また、裴松之は、孫策の刺客による死を予言した郭嘉の話についても、「本当なら明察だが、上々の智でないなら、人がいつ死ぬか分かるものではない。これは恐らく、偶然の一致に過ぎないのだろう」と言っています
実際、孫策が袁紹と曹操の争いに乗じて、許を狙うというのは、噂話に過ぎない事で、だからこそ郭嘉は孫策に備えろとは言わず、「どうせ、ああいう成りあがりは、刺客に殺されて死ぬのがオチです」と軽口を叩いて、慎重派を安心させたのでしょう。
それから、間も無く、孫策が本当に暗殺されたので、いかにも、郭嘉が孫策の死を予言したように思われたのでしょう。
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まるで逆になった魏略と傅子の記述・・
曹操の下に逃れてきた劉備の処遇については、魏略と傅子は、まるで正反対の郭嘉の言葉を載せています。魏略では、ある人が劉備は英雄の質だから、いつ寝返るか分からないこれを殺して憂いを断つべきと曹操に進言します。そこで曹操が郭嘉に相談すると、
「一理はあります、しかし殿は義兵を興して、百姓の苦しみを除き、賢人を招集して、誠心誠意尽くしても、なおも足りない事を恐れています劉備は賢人として天下に聞こえていますが、これを殺せば、天下の賢人は、殿に仕えるのを躊躇する事でしょう一体、一人の人間を殺して憂いを除き、それにより天下の人心を失うのは同じでしょうか?よく察していただきたいものです」
一方で傅子では、以下のようになっています・・
「劉備は英雄であり野望を持ち、甚だ人心を得ております。それに加えて部下の張飛や関羽は一人で万人を相手にする豪傑であり、劉備の為に命を賭して働いています私の見立てでは、劉備は人の風下に立つ事はなく、その本当の考えは測る事ができません古人の言葉にも一日敵を放てば、数世代の憂患となるとあります禍が大きくなる前に早く処断するべきです」
この時、曹操は天子を奉じて天下に号令し、まさに英雄を招聘して大いなる信義を明かにしており、郭嘉の進言を受け入れませんでした。
たまたま曹操は劉備に袁術(えんじゅつ)を攻撃させたが、郭嘉は程昱(ていいく)と倶に駕籠(かご)で行って曹操を諫めます。「劉備を放てば大変な事が起こりますぞ!」
しかし、その時には、劉備は已に去り遂に兵を挙げて反乱した。曹操は郭嘉の言葉を用いなかった事を悔やんだ。
まるで正反対ですが、傅子の記述は創作だと思います。西暦200年、曹操の下を離れた頃の劉備は、ただの傭兵隊長であり曹操の脅威とは成りえないからです。恐らく、曹操が劉備を意識しだしたのは、劉備が益州を落して、確固たる地盤を得てからであり、それまでは、いつでも落せる昆虫のような認識しか無かったでしょう。ところが、傅子を書いた魏の傅玄(ふげん)は、西暦217年生まれであり、強大になり、曹操の天下統一に立ち塞がった劉備を後知識で知っています。だからこそ、郭嘉を通じて劉備は後で厄介な敵になると言わせ、その先見性を褒め称えているのです。どう見ても、この記述は創作臭く、極端な郭嘉アゲの臭いがします。
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曹操のあの感動的なセリフも傅子由来・・・・・
曹操がまた言うには
「哀しいかな奉孝! 痛ましいかな奉孝! 惜しいかな奉孝!」
こちらは、郭嘉を失った曹操が悲痛の余り、口走ったという劇的な言葉です。詩文に優れた才能を示した曹操らしい、感情の入ったセリフですね。
郭嘉は、自分の全てを分っていると言う程に郭嘉を信頼した曹操なら、これ位は言うかも知れませんが、残念ながら正史には無いセリフです。曹操が絶対に言わなかったとは言えませんが、しかし、傅子由来と聞くとねぇうーーーん、、知らないほうが良かったような・・
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三国志ライターkawausoの独り言
郭嘉と同族ではない傅玄が、どうして、こうまで郭嘉をアゲるのか良く分りません。もしかしたら、郭嘉と自分のポジションをシンクロさせていて、その為に、郭嘉をアゲて、俺はもっとすごいんだ!と言いたかったという事かも知れないです。
そうなると、ますます分らないのは、さらに縁故関係ない裴松之ですが、どうして、補則で傅子を7つも挿入したのでしょうか?
単純に郭嘉が好きだったか、面白中心主義を貫いたのか・・
本日も三国志の話題をご馳走様です
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