※こちらの記事は「シミルボン」に配信されているコンテンツです。
中国では、天体の運行は現実の政治に対する警告や予兆を知らせるものと
考えられ古くから天文学が発達していました。
特に、彗星は不吉の前兆として忌み嫌われ、その為に中国の歴史書には
彗星出現の記録が多く残される事になったのです。
三国志の時代にも、現代の私達に馴染みが深い彗星が登場し、
その出現に対して、様々な意味が与えられています。
西暦188年、スイフト・タットル彗星が記録される
(写真引用元:スイフト・タットル彗星 wikipedia)
スイフト・タットル彗星は、1862年に発見された周期133年という彗星で、
スイフトとタットルという人に別々に発見されたのでこの名前があります。
この彗星、最近、お馴染みのペルセウス座流星群の母天体でもあり、
1862年に、地球に接近した時には、中国において満月の中四夜に渡って出現、
極大時には1時間あたり4800個に達する流星雨を降らせたという
記録が残っているようです。
これは、スイフト・タットル彗星が地球に接近した時の特徴のようで、
西暦188年にも、同じような現象が起きた事でしょう。
短時間で大量の流れ星が降る様子に当時の人々は恐れ慄いたに違いありません。
実際に大凶の年となった西暦188年
しかも、偶然にも、西暦188年は政治的にも大凶の年になりました。
この年の2月には黄巾賊の残党の郭大(かくだい)が蜂起し
4月には後漢の12代皇帝の霊帝(れいてい)が崩御します。
そして、8月には、大将軍何進(かしん)が権力争いで宦官を皆殺しにしようと
画策しますが、先手を打たれて宦官の張譲(ちょうじょう)に逆に殺害されてしまいます。
これに激怒した何進の子分格に当たる袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)が
軍を率いて宮中に乱入し3000名の宦官を虐殺する変事が発生しますが、
張譲は少帝(しょうてい)を連れて洛陽を脱出して難を逃れようとし、
そこで何進の命令を受けて洛陽に入ろうとしていた董卓(とうたく)の軍勢と
遭遇し自殺、董卓は少帝と弟の陳留王を保護して官軍として洛陽に入城し、
9月には独断で少帝を廃して陳留王を皇帝に即位させ、これに異を唱える
反対派を粛清して恐怖政治を開始するのです。
ペルセウス座流星群がよく見られるのは、太陽暦の八月ですから、
洛陽で凶事が頻発する1カ月前位には見られたという事でしょう。
まさに気持ちが悪い程のタイミングでした。
西暦218年、曹操や孔明がハレー彗星を確認
最近では、1986年に観測された76年周期のハレー彗星ですが、
こちらも、西暦218年、3月、東の空に彗星が出現したとあります。
ハレー彗星は、出現する時によって、大きさが異なり、
1986年の接近時には、それほど明るくなかったのですが、
その1回前の1910年の接近時には、大きく見えた年もあるようです。
西暦218年といえば、有名な諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、
すでに劉備の軍師として活躍し曹操(そうそう)も最晩年とはいえ存命中です。
両者は、3月に東の空に出現して飛んでいったハレー彗星を
複雑な思惑を秘めながら眺めていた事でしょう。
蜀に取っては吉、魏にとっては凶になったハレー彗星
西暦218年は、曹操にとっては大凶から始まります。
前年に曹操は魏王になり、いよいよ後漢の天下を乗っ取る下準備に入りますが
それに危機意識を持った、吉本(きつほん)、耿紀(こうき)、韋晃(いこう)らが、
正月早々に、許都で叛乱を起こして失敗し、激怒した曹操は三名を処刑します。
同年7月には、曹操は益州で勢力を伸ばし始めた劉備を討つために、
兵を西に進めますが、翌年には敗北して引き上げています。
また、8月には、宛で侯音(こうおん)という武将が重税に苦しむ民衆を率いて蜂起、
これには、荊州南郡を領有する関羽(かんう)も呼応しています。
この反乱も結局失敗していますが、曹操が不在の隙を突いたものでした。
一方で孔明の側では、武将が何名か戦死したものの、大きな被害はなく
翌年には、漢中を曹操の支配下から奪いとれたので、
218年のハレー彗星は吉となったようです。
参考文献:後漢書
著者: 范 曄/吉川 忠夫/李 賢 出版社: 岩波書店
の続きは、「シミルボン」内のページで読めます。
続きが気になる方は、「シミルボン」にアクセスしよう!