【シミルボン】三国志と彗星達の不思議な関係

2017年1月9日


 

シミルボン

 

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始皇帝と星空

 

中国では、天体の運行は現実の政治に対する警告や予兆を知らせるものと

考えられ古くから天文学が発達していました。

特に、彗星は不吉の前兆として忌み嫌われ、その為に中国の歴史書には

彗星出現の記録が多く残される事になったのです。

三国志の時代にも、現代の私達に馴染みが深い彗星が登場し、

その出現に対して、様々な意味が与えられています。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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西暦188年、スイフト・タットル彗星が記録される

スイフト・タットル彗星 wiiki

(写真引用元:スイフト・タットル彗星 wikipedia

 

スイフト・タットル彗星は、1862年に発見された周期133年という彗星で、

スイフトとタットルという人に別々に発見されたのでこの名前があります。

 

この彗星、最近、お馴染みのペルセウス座流星群の母天体でもあり、

1862年に、地球に接近した時には、中国において満月の中四夜に渡って出現、

極大時には1時間あたり4800個に達する流星雨を降らせたという

記録が残っているようです。

 

これは、スイフト・タットル彗星が地球に接近した時の特徴のようで、

西暦188年にも、同じような現象が起きた事でしょう。

短時間で大量の流れ星が降る様子に当時の人々は恐れ慄いたに違いありません。

 

実際に大凶の年となった西暦188年

黄巾賊

 

しかも、偶然にも、西暦188年は政治的にも大凶の年になりました。

この年の2月には黄巾賊の残党の郭大(かくだい)が蜂起し

4月には後漢の12代皇帝の霊帝(れいてい)が崩御します。

そして、8月には、大将軍何進(かしん)が権力争いで宦官を皆殺しにしようと

画策しますが、先手を打たれて宦官の張譲(ちょうじょう)に逆に殺害されてしまいます。

 

これに激怒した何進の子分格に当たる袁紹(えんしょう)や袁術(えんじゅつ)が

軍を率いて宮中に乱入し3000名の宦官を虐殺する変事が発生しますが、

張譲は少帝(しょうてい)を連れて洛陽を脱出して難を逃れようとし、

そこで何進の命令を受けて洛陽に入ろうとしていた董卓(とうたく)の軍勢と

遭遇し自殺、董卓は少帝と弟の陳留王を保護して官軍として洛陽に入城し、

9月には独断で少帝を廃して陳留王を皇帝に即位させ、これに異を唱える

反対派を粛清して恐怖政治を開始するのです。

 

ペルセウス座流星群がよく見られるのは、太陽暦の八月ですから、

洛陽で凶事が頻発する1カ月前位には見られたという事でしょう。

 

まさに気持ちが悪い程のタイミングでした。

 

西暦218年、曹操や孔明がハレー彗星を確認

孔明 コペルニクス

 

最近では、1986年に観測された76年周期のハレー彗星ですが、

こちらも、西暦218年、3月、東の空に彗星が出現したとあります。 

ハレー彗星は、出現する時によって、大きさが異なり、

1986年の接近時には、それほど明るくなかったのですが、

その1回前の1910年の接近時には、大きく見えた年もあるようです。

 

西暦218年といえば、有名な諸葛亮孔明(しょかつ・りょう・こうめい)は、

すでに劉備の軍師として活躍し曹操(そうそう)も最晩年とはいえ存命中です。

 

両者は、3月に東の空に出現して飛んでいったハレー彗星を

複雑な思惑を秘めながら眺めていた事でしょう。

 

蜀に取っては吉、魏にとっては凶になったハレー彗星

暗殺計画自慢の董承08 曹操

 

西暦218年は、曹操にとっては大凶から始まります。

前年に曹操は魏王になり、いよいよ後漢の天下を乗っ取る下準備に入りますが

それに危機意識を持った、吉本(きつほん)、耿紀(こうき)、韋晃(いこう)らが、

正月早々に、許都で叛乱を起こして失敗し、激怒した曹操は三名を処刑します。

 

同年7月には、曹操は益州で勢力を伸ばし始めた劉備を討つために、

兵を西に進めますが、翌年には敗北して引き上げています。

 

また、8月には、宛で侯音(こうおん)という武将が重税に苦しむ民衆を率いて蜂起、

これには、荊州南郡を領有する関羽(かんう)も呼応しています。

この反乱も結局失敗していますが、曹操が不在の隙を突いたものでした。

 

一方で孔明の側では、武将が何名か戦死したものの、大きな被害はなく

翌年には、漢中を曹操の支配下から奪いとれたので、

218年のハレー彗星は吉となったようです。

 

参考文献:後漢書

著者: 范 曄/吉川 忠夫/李 賢 出版社: 岩波書店

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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